There's a place where I can go

ツイッター @hyokofuji ミサ

【映画】小三治

小三治』 2009年 日本

映画館で観たのだけれどもちろんDVDも買ってしまった。私の大好きな柳家小三治さんのドキュメンタリー映画だ。鈴本演芸場での公演や各地での独演会、弟子の真打昇進を発表する舞台、プライベートな旅行など、盛りだくさんの内容。

とことん真面目で、緻密で、それでいて大らかさもあって、そんな小三治さんの落語の魅力はもちろん、小三治さんという人の魅力も存分に伝わってくる。

小三治さんの入浴シーンもあるよ!!

小三治さんの落語の魅力については、鈴本演芸場の支配人が見事に説明してくれているので、私がここで説明を加える必要はほとんどないと思う。大家と店子を演じ分ける小三治さんの姿をはさみながら支配人の説明を聞くと、小三治さんの落語をこの映画で初めて見る人でも「なるほど」と思えるようになっている。

落語では右を向いたり左を向いたりすることで人物を演じ分ける。向きを変えて表情や声色を作って喋り方を変えることで誰を演じているのかわかるようにする。だけど小三治さんの場合「表情を作ったり言葉遣いを変えたりする前に、何もしないうちに、もうその人になってしまっている」と支配人は言う。

その通りだ。小三治さんの落語を見ていると、ちょっと首をふったかと思うともう空気がガラっと変わっていて、表情を作るより前に顔つきが変わってしまっている。動きはほとんどないのだけれど、小三治さんの顔を見ているだけで私の頭の中で何人もの登場人物がリアルに動き出す。

映画から少し話が離れてしまうけど、2010年4月10日に神戸で開かれた柳家小三治独演会に行ってきた。

演目は『長屋の花見』と『品川心中』。

長屋の花見』を見ている時は座布団の上に小三治さんが座っているだけなのに長屋のみんながワイワイ騒いでいる様子が目に浮かんで感動しっぱなしだった。特に毛氈に見立てたむしろを持った二人がよその花見客の卵焼きを羨ましそうに見ているところが心に残った。

見栄張りの大家さんがむしろを持った二人に「毛氈持ってこーい」と声を掛けるのだけど、二人は自分たちが持っているむしろが毛氈に見立てられていることも忘れて、自分たちが卵焼きに見立てる予定の漬物のことも忘れて、ただただ他人の卵焼きに目を奪われてその場から動けなくなっている。一番好きなシーンだ。

「貧乏に負けず」という気概もなければ「貧乏を受け入れて」という達観もない。事態を変えようとせず、自分のものの見方を変えようともしない。自分の置かれた状況の中に腰を据えて、自由に心を動かしている人たちが、本人たちが他人を羨ましがっているにも関わらず、ちっとも《かわいそうな人たち》に見えない。長屋の人たちをこんな風に見せてしまうところに小三治さんの魅力を感じた。

映画の中で立川志の輔さんが話していたことが興味深かった。

古典落語は先人たちが足したり削ったりして台本が完璧な状態に整えられている。そこにオリジナリティを加えるのは難しいし、そのままやって面白くないはずがない。それなのに『この人じゃなきゃダメ』ってのが出てきてしまう。そこが怖い」

私は小三治さんの『初天神』を偶然テレビで見たのがきっかけで小三治ファンになったのだけど、そこから「落語が好き」っていうところにはなかなか広がっていかなかった。他の人の落語も聴いてみたけれど、やっぱり小三治さんじゃなきゃダメだった。どうしてなのかなってずっと考えていたのだけれど、志の輔さんが「自分の尊敬する落語家たちはみんな落語と格闘している」と言っているのを聞いて、ちょっとわかるような気がしてきた。魅力的な噺家は世の中にたくさんいて、それぞれ志の輔さんの言うように「古典落語の台本と格闘している」のだろうけど、その闘い方によって聞く側の好き嫌いが出てくるのかもしれない。

小三治さんが師匠から稽古をつけてもらう時の話をしているのを聞いて、私が小三治さんに惹かれるわけが少しずつわかってきた。師匠に身振りの付け方を聞く時に「こういう時の形はどうしたらいいですかね?」なんて聞いてみると「そいつの身になって考えろ」と言われてしまうそうだ。その話を聞いた時に吹き出してしまった。

「噺なんだから。動作なんかどうでもいい。心なんだから」と師匠は考えていたそうだ。

この話から窺えるような姿勢で落語と向き合ってきたから、小三治さんの落語は小三治さんにしかできないものになっているんだろうなって思った。登場人物たちの感情を表現するために自分が噺を盛り上げていくのではなく、自分の中に登場人物たちが生きていて、彼らがそれぞれの場面で自然に表に出てくる感じ。

私はそんな小三治さんの落語が大好きなんだけど、小三治さんは師匠から「お前の噺は面白くない」と言われ続けてきたそうだ。本人も「自分は落語家に向いていない」なんて言うけれど、「面白くない」と師匠に言われ続けながらそれでも落語と格闘し続けてきた小三治さんは噺家以外の何者にもならない人だったんじゃないかなって思う。

小三治さんが落語と出会ったのは中学三年の時。初めて「へー。世の中にはこんなおっもしれぇもんがあるんだ」と思って食いついてしまったそうだ。中三の時の小三治さんが落語に出会ってくれて本当によかったと私は思う。

落語に魅せられる前は歌が好きだった小三治さん。その話をする時に「オートバイでもなきゃ、ハチミツでもない。その前は歌だよ」と言って会場の笑いを誘っていた。小三治さんは多趣味で有名なのだ。

歌も趣味って言いながら先生についてレッスンをしていて、かなり本格的。神戸であった独演会でも、まくらで「トゥーランドット」をちょっとだけ歌ってくれた。小三治さんの歌声の素晴らしさに呆然としながら「そうだ、趣味っていうのは憂さ晴らしや暇つぶしの道具なんかじゃないんだ!」って感激して、噺が始まる前から泣きそうになってしまった。

映画の中で小三治さんは「芸は人なり」と言う。「そのためにスキーをやったりね」と冗談めかして言う小三治さんだけど、小三治さんが趣味に対する時の姿勢にははっきりと小三治さんらしさが出ている。私が小三治さんの小三治さんらしさだと思うところは簡単に言っちゃうと《「100点じゃなきゃダメだ」っていう感覚が抜けないところ》だ。本人は自分のそういうところがあまり好きではないみたいで「100点じゃなきゃダメだっていう考え方はおかしい」とさえ思っているようなんだけど、私は小三治さんのそういうところも大好き。

趣味のことがらに対してさえも全力で取り組んでしまう小三治さん。趣味の多さはまくらのネタとして役に立つだけじゃなく、落語以外の世界にも開いているという態度を落語に反映させるためにどうしても必要なことなんだろうと思う。自分以外の人間の感覚に寄り添おうとする姿勢が小三治さんの落語を素晴らしいものにしているのだ。自分には厳しいんだけど他人には温かい目を向けることができる。そんな小三治さんの人柄が好きだからこそ、小三治さんの落語も好きになってしまうのだろう。「芸は人なり」っていうのはその通りだ。

入船亭扇橋さんとのコンビもすごくよかった。二人は修業時代からの親友で、一緒に温泉に行くところが映画でも出てくるのだけど「『二人でどっか温泉行こうね』って言ってたんだよね」と言うところや、浴衣姿の小三治さんに扇橋さんが「色っぽいね」と言ったりするのがおかしかった。二人が男子小学生みたいにお風呂でふざけるところも愉快でよかった。

この映画を観て、私はますます小三治さんのことが好きになってしまったし、小三治さんを知らない人でもこれを観れば小三治さんのことが好きになっちゃうんじゃないかなって思う。オススメの一本!

ドキュメンタリー映画小三治

監督:康宇政(カン・ウジョン)

【映画】仕立て屋の恋

仕立て屋の恋』 1989年 フランス

イールという仕立て屋の男が向かいに越してきた女性の部屋を覗き見ている。ある日女性は覗かれていることに気づいて、その瞬間から二人の関係が変化していく。

覗かれていた女性アリスがイールに接近するシーンが一番好き。階段の上から袋に入ったトマトを転がすのだけど、その赤の鮮やかさと彼女と対面した瞬間のイールの表情がいい。

今までは自分が見られることを意識せずに一方的にアリスを見つめていたイール。彼女の視線を自分が受けることになって、彼の中で彼女に対する思いが変わっていく。

誰かを知っていくということは、誰かを少しずつ自分の理解の範囲内に収めていくことでもある。アリスに向かって「見ていただけだ」と言う彼だけど、「見る」という行為は控えめなようでいて、《他人を自分の支配下に収める》という暴力的な要素を含んでいる。「相手からも自分が見られている」ということを想定していない時、それは《相手を一方的に客体として扱う行為》になってしまうからだ。

覗かれていたことに対して「あなたを恨んでいない」と彼女が言うところが印象に残った。彼と親しくなっていく彼女を見ていると覗かれることを心地よく思っているようにも見えるのだけど、彼女が彼の行為を非難しなかった理由はそれだけではない。人を「物」扱いするということでは、彼女の方が彼の上を行っている。それが明らかになるラストが切なかった。

作品全体を通してイールが「見る」側と「見られる」側を行ったり来たりするところが面白い。

ボウリング場で見事なテクニックを見せて観客を惹きつけるイール。この時の彼は見られることを楽しんでいる。おとなしそうに見える彼がニヤリと得意げに笑ってみせるところがよかった。

スケート場で転倒した彼が思わずみんなの注目を集めてしまうシーン。このシーンでは彼は他人から見られることをひどく嫌がっている。心配して手を貸してくれる人を振り払ってリンクの外に出て行く彼がなぜスケートリンクにいたのかというと、アリスとその婚約者を尾行していたからだ。

「見る」側と「見られる」側をひょいひょい行き来する彼を追っていると「見られる」側が必ずしも受け身なのではなく「見せつける」という見られ方もあるのだということに思い至る。ただ見られていたアリスが、見られていることを意識することで主体性を回復するのはそのためだろう。

アリスが見られていることを意識しながら見られるようになる場面で、イールの覗き行為は一方的なものではなくなる。二人の関係が共犯めいたものになっていくところに惹きつけられてしまった。

アリスとイールの関係が近づいていくところで、匂いをかいだり触れたりという視覚以外の部分で相手を感じるシーンが出てくる。見ているだけの時に比べてイールの喜びはどんどん大きくなっていくのだけど、それと同時に彼の立場は以前よりずっと危ういものになっていく。

イールが彼女に掛ける言葉は驚くほどストレートだ。言葉だけを拾ってみるとよくある紋切り型の大げさな表現なんだけど、彼の口からそれが出ると悲しいほど切実に響く。

彼女に接近していくことでいくらかは彼女を自分の世界のうちに置くことに成功したイールだけど、だからこそ彼女は彼の手の内から滑り落ちて行ってしまう。自分の世界の外にあるものとして見つめていた時には手に入らなかった喜びを手に入れることができたけれど、そのかわり一度自分の世界のうちに収めてしまったものは二度と自分の目に触れないところへ消えて行ってしまう危うさをも持つ。

最後に彼がアリスにかけた言葉が印象的だった。

「笑うかもしれないけど、恨んでないよ。ただ死ぬほど切ないだけ」

「死ぬほどの切なさを代償にできるだけの喜びを与えられた」と言い切れる彼が、その自分の確信を「笑うかもしれないけど」と表現するところがすごくいい。

私はイールの心の動きに焦点を当てて観ていったのだけど、殺人事件が絡んでいたりもするので、サスペンス的な要素も楽しめる。

原作になったジョルジュ・シムノン『イール氏の犯罪』(邦題:『仕立て屋の恋』ハヤカワ文庫)も気になるので、近いうちに読んでみたい。

監督:パトリス・ルコント

脚本:パトリス・ルコント パトリック・トヴォルフ

原作:ジョルジュ・シムノン『イール氏の犯罪』

【映画】キッズ・オールライト

キッズ・オールライト』 2010年 アメリ

同性愛カップルが精子提供を受けて産んだ二人の子どもを育てている。姉ジョニは18歳。弟レイザーは15歳。二人のママがいるちょっと「普通」からはみ出した家庭だけど、四人とも幸せそう。

弟の頼みで姉が精子バンクに電話し、生物学上の父親と会う約束を取り付ける。姉と弟の父親は同一人物なのだ。父親のポールはレストランを経営する優しくて陽気な男だったのだけど、三十代後半という年齢のわりに責任感がとぼしくてちょっとチャラチャラした感じ。姉は彼に惹かれるのだけど、弟は「自分が一番大事って感じの人」と彼に厳しい評価を下す。

父親に会いに行ったことは二人のママに内緒だったのだけど、「ゲイではないか」という疑いをかけられ、「隠し事があるんじゃないか」と二人から問い詰められた弟が、姉と一緒に父に会いに言ったことを白状してしまう。弟がゲイの疑いをかけられていたことに気付くのは父に会ったことを白状したあとだ。このシーンでの親子のやり取りが面白かった。どうして男同士のポルノを見るのかと息子から尋ねられ、ついつい本音を行ってしまう母ジュールスのキャラクターが魅力的。

彼女は自分が力を発揮できる場所をまだ見つけられずにいるようで、その点でもう一人の母ニックに対してひけ目を感じているようだ。ニックはお医者さんで完璧主義なのだけど、心配性で気の弱いところもあるので、取り乱すたびにジュールスに助けられている。お互いの足りないところを上手く補いあっているいい夫婦だ。ちょっとした不満はありながらもそれを上手くやり過ごしながら日常を送っていた二人。だけど子どもたちの父親の出現で徹底的に衝突することになってしまう。

同性愛カップルと精子提供でできた子どもという特殊な状況設定だけど、そこで起こってくる問題はどの家庭にも当てはまることだ。ジュールスがニックを裏切ってしまったあと、自分の非を認めて誠実に対応するところがよかった。彼女の謝り方は配偶者であるニックと二人の子どもたちを愛しているということがちゃんと伝わってくる謝り方だった。

結婚生活についてジュールスが語ることは本質をついている。結婚生活というのがお互いの欠点を暴きたてるものだというのはその通りだ。愛する相手に目を向けることがいつの間にか醜い自分に直面することに変わってしまう。そこで自分と向き合わずに脇道にそれて行ってしまったジュールス。彼女のしたことをニックが許せなかったとしても仕方ないとは思うのだけど、ジュールスのように自分がニックを傷つけたことを認めて、自分の間違いや弱さと正面から向き合ってこれからやり直そうとしてくれるなら、彼女の過ちは二人の絆をより強めるのに役立ってくれるかもしれない。

二人の子どもたちジョニとレイザーを見ていると、二人の母親が築いた家庭は簡単に壊してしまっていいものではないということがよくわかる。

子どもたちの出現で家庭に憧れを持ってしまったポールには悪いけれど、いくら血がつながっているとはいえ、彼がここに入っていく余地は全くない。生物学的に父親であることと子どもたちの父親になることとは別のことだし、気ままな独身生活から足を洗おうと決めた彼なら、これから自分の家庭を築いていけるだろう。一生独身でも構わないと私は思うのだけど。

「家族とは何か」というテーマをユーモラスに描いていて、深い内容なのに気楽に楽しんで観ることができる作品だった。

頭がよくて真面目で、真面目な自分をちょっと嫌だなと思っている十代の女の子が私は好きなので、そんなジョニを演じるミア・ワシコウスカが大好きになってしまった。彼女はこの役にピッタリ!同じ理由で『17歳の肖像』で主人公を演じるキャリー・マリガンも大好き。

監督:リサ・チョロデンコ

脚本:リサ・チョロデンコ スチュアート・ブルムバーグ

【漫画】ひらけ駒!

『ひらけ駒!』1~4巻 南Q太講談社

今4巻まで出てて、まだまだ続く漫画だけど、すっごく面白い。将棋にはまった息子とシングルマザーの毎日を描いたもので、将棋のルールがわからなくても楽しんで読める。

小学四年生の宝くんは将棋に夢中。道場にも通っていて家でも将棋の本を読んだりネットで対戦したり。宝くんはまだ奨励会や研修会には入っていないので、この漫画を読むと《プロを目指す予定はないのだけど将棋を楽しんでいる人たち》 がどんな風に将棋を楽しんでいるのかが分かって楽しい。これは他の将棋漫画にはない楽しみかただ。

特に宝くんのお母さんは宝くんに釣られて将棋に興味を持ち始めたばかりで、ルールもよく分かっていない。そんなお母さんが宝くんの部屋を掃除する時に将棋カレンダーをめくって「今月は羽生さんだ」って言うところや、『聖の青春』を大切そうに読んでいるところがツボだった。うちにも将棋カレンダーがあるし、『聖の青春』は私の愛読書だ。

郷田さんの昔の写真を見てお母さんが驚くところで、笑い転げてしまった。私は今の郷田さんが大好きだけど、エッセイなんかで「絶世の美男子」と書かれたりしているのを読んで、首をかしげたことがあるのだ。『棋神』という将棋棋士の対局姿を収めた写真集があって、それを見た時に謎が一瞬で解けた。若い頃の郷田さんは確かに絶世の美男子!そんな経験があったから、お母さんの驚きっぷりを見て「わかる、わかる」と思ってしまった。私のような超初心者の将棋ファンにはたまらないポイントがいっぱいだ。

3巻でお母さんはアマチュア団体戦に出場。一勝したあとの昼休憩中に「なんか勝つかもって思ったら手ふるえちゃって」と仲間に話す。「ちょっとそれじゃ羽生さんじゃない!」と仲間から返されるところで笑ってしまった。登場する棋士が実在する棋士なので、こういう話がポンポン飛び出して面白い。

お母さんの将棋仲間の女性たちが将棋を始めたきっかけも様々。サラリーマンからプロ棋士になった瀬川さんの記事や自伝を読んだのがきっかけで将棋に興味を持った人もいれば、ハチワンダイバーなどの将棋漫画がきっかけで将棋を始めた人もいる。私も瀬川さんの自伝『泣き虫しょったんの奇跡』(瀬川晶司)は読んだことがあるし、羽海野チカの『3月のライオン』という将棋漫画が大好きだ。だからお母さんと将棋仲間の話を聞いているのが楽しかった。

その中の一人が「ビギナーズセミナーの講師が奨励会の人たちで、十代の男の子が自分のことを『先生』っていいながら教えてくれるのがたまらない」と言っていた。奨励会員なんて雲の上の人なんだから「先生」以外の何者でもないと思うのだけど、十代の男の子が自分で自分のことを「先生」って言うのは確かにちょっといいなって思った。私も将棋セミナーに行ってみたいな。

宝くんはすっごくかわいくて、この漫画を読んでいると「私も息子が欲しいなぁ」と思ってしまう。息子と一緒に将棋を楽しめるなんて最高に幸せだろうな。

4巻では宝くんのスランプを解消するためにお母さんが大活躍する。お母さんのキャラクターが飄々としているようで実は熱い人なのがいい。この親子のこれからが楽しみだな。早く5巻を読みたい!

【本】出禁上等!

『出禁上等!』 ゲッツ板谷 (角川文庫)

ゲッツ板谷が今まで足を踏み入れたことのない場所に突撃してレポートを書いたもの。『週刊SPA』の連載(2003~2004年)の書籍化。

自分のことをボキと呼ぶこの男は39歳なのだが、今まで文化的なものには全く興味がなかったらしい。思春期の頃はシンナーを吸うか女の子を追いかけるか生意気な奴に喧嘩を売るか…ってことしかせず、大人になっても暇な時はスーパーの中を出口から逆回りしたり、車の中で一人アカペラカラオケをやったり、お風呂場の排水口にタオルを詰めて赤ちゃんプールを作って仰向けになったりしていたそうだ。素敵な休日の過ごし方…。

そんな男が宝塚歌劇やバレエや歌舞伎を観に行ってどんな感想を書くのか、楽しみにしながら読み進めた。私も文化的なものやイベントにはあまり興味がなくて、生で見たことがあるのはカジヒデキのライブと柳家小三治の独演会だけだ。だからまず歌舞伎やバレエ、ディナーショーの料金の高さにビックリしてしまった。私も自腹だったら絶対行かないなって思うのだけど、自分の行ったことのない場所に突撃してそれをレポートしながらガンガン突っ込みを入れていくのは楽しそうだ。突撃する場所のセンスが凄くいいし、突っ込みも的確。

文句をつけているのに感情の垂れ流しになっていないところが絶妙。基本的には悪口なのに読んでいて全然嫌な気分にならない。自分の思ったことを正直に書いているだけで、いい時も悪い時も感情を上乗せしていないところが好感をもてる理由なのかもしれない。

彼が訪れるのは、自分にはその魅力がわからないのに人がたくさん集まっているところ。六本木ヒルズ木下サーカスユーミンのライブ、劇団四季相田みつを美術館、宝塚歌劇熊川哲也のバレエ、防災館、かち歩き大会、清掃ボランティア、いっこく堂ディナーショー、NHK青春メッセージ、初春大歌舞伎、世界らん展などなど…。行ってみてやっぱり面白くなかったところもあれば、意外に楽しめるところもあって、その違いを比べていくのも面白い。場所だけではなく、中谷彰宏の本やベストセラー『バカの壁』を読んだりもする。

坊主、サングラス、巨漢という外見からいかつい印象を受けたのだけど、「人体の不思議展」や「防災館」、「ペットフェスタ」での怖気づき方がかわいくて好感を持ってしまった。「いっこく堂のディナーショー」で舞台に上げられ、ものすごく真面目にいっこく堂をサポートしちゃうところも素敵だった。

中谷彰宏に突っ込みを入れるところで、「お前は辺見庸さんや宮部みゆきさんの前で自分も作家だなんて言えるのか?」と言っていて、この二人を出してくるところが私のツボだった。パッと見た感じ「私と世界の違う人」って感じがするのだけど、共感できる部分が多くて驚いた。

「勘だけど」「直感だけど」と前置きして言い放つ一言がすごく面白い。特に面白かったのは「NHK青春メッセージ04」を観覧した時の出場者に対する印象を語る部分。

「直感だが、子供の頃に親の気を引こうとレゴブロックを2~3度飲み込んでる男のような気がした」(p.241)

どんな男だよ!!よくわからない例えだけど、何となくわかるような気がしてくるから不思議。妙に具体的なのがいい。

ユーミンのライブに行った時の「ユーミンはオレにとってセクシーな五色沼のような存在だった…」という一文や、宝塚歌劇のラスト20分を「狂った飛び出す絵本のよう」と表現するところもよかった。

『あらすじで読む日本の名著』というようなシリーズをありがたがって読む人のことを「得々バカ」って言っちゃうところも、最低限の言葉で本質を見事についているところがすごい。「バカには『いいバカ』と『悪いバカ』がいる」という自分のバカ論を展開するのだけど、「いいバカは人に迷惑をかけることもあるが人をホンワカさせてくれる。悪いバカというのはただ人の神経を消耗させるだけの奴」ってところに頷いてしまった。ゲッツ板谷の周りに集まっている「いいバカ」の代表が彼の父親なんだけど、この人の言動には私も何度も笑わせてもらった。来年70になる父が突然「俺、不思議なんだけど、覆面を買いたいんだよな…」とつぶやく。「こういう一言が聞けるからバカの城壁の中にいるのが好きなんだ」っていうゲッツ板谷の感覚はよくわかる。彼の家族はぶっ飛んでいて、一緒にいると大変そうだけど楽しそう。あとがきについていた弟の文章がひどすぎて笑った。ゲッツ板谷の親友キャームは、いまだに「イタヤくん、遊ぼ~っ!!」と外で叫んでからウチに上がってくるそうだ。「いいバカ」は人をホンワカさせるって、その通りだな。

【本】失恋

『失恋』 鷺沢 萠 (新潮文庫

4つの短編からなる作品。

「欲望」
バブル期に、出してはならない所に手を出してしまった夫を助けたいとは思うのだけど、もう手に負えないところまで事態は悪化していて…。愛する夫を救いたいと思うことを自分勝手な欲望だと考える主人公の自分に対する厳しさに好感がもてる。

「安い涙」
十七で両親を亡くした幸代は親戚に土地家屋を含む両親の財産を奪われ、十八で東京に出た。「ここで食えなければ帰れる場所がない」という切羽詰まった意識と頼れる者がいないという「強み」で何とか暮らしてきた幸代だけど、その「強み」が三十代後半にさしかかると「弱み」に変わってしまう。

他の二つの短編も含めて失恋の話というより誰かとの関係が思うようにいかないもどかしさが描かれる。その場その場で適当に振舞っていれば円滑にいく表面的な付き合いと違って、ある程度関係が深くなるとお互いが背負っている今までの色々が顔を覗かせてしまう。それが原因で起こってしまう仲違いは、その人がその人である限り避けようがないのだけれど、そうとわかっていてもやっぱり傷ついてしまう。人を好きになったり大事に思ったりすることの複雑さが描かれていてよかった。

【映画】127時間

『127時間』 2010年 アメリカ・イギリス

週末にキャニオニングに出かけるのが趣味のアーロン。姉からかかってきた電話にも出ずにいそいそと出発の準備をして飛び出した。彼が向かったのはユタ州のキャニオンランズ国立公園。

スクリーンが縦に三等分されて、別々の映像が流れるのが楽しかった。車を運転する彼や流れる景色、頭上から車を見下ろす構図の映像が流れていく。金曜の夜の高揚感とこれから始まる冒険のワクワク感が伝わってくる。

この週末旅行は楽しいだけのものじゃない。彼は岩場で動けなくなってしまうという人生最大のピンチを迎えるのだ。観る前にそれを知っていた私は、ドキドキしながら彼を見守った。何が失敗の原因になるんだろう。彼はどうやってピンチを切り抜けるのだろう。そんなことを考えながら彼を追っていった。

事故が起こる前は本当に楽しい週末。まず渓谷の景色の素晴らしさに目を奪われてしまった。私もこんなところに行ってみたいなぁ。相当体力がないと難しそうだけど。アーロンは急な坂道を駆け下りたり、岩場を軽々と登っていったり、驚くほど身軽だ。装備も普通のスニーカーにリュックで、こんな格好でこんなに危険なことをして大丈夫なのかな?と心配になってくる。

キャニオニング(キャニオニアリング)というのを私は初めて聞いたのだけど、渓谷沿いを散歩するだけではなく、クライミングや飛び込み、水泳といった要素も取り入れて、積極的に水の流れの中に入っていくスポーツのようだ。

ちょっとやってみたい気もする。彼が途中で出会った女性たちと一緒に地下にできたプールに飛び込むのは気持ちよさそう。かなり危険だけれど。

彼はひょいひょいと岩場を駆けながら音楽を聴いている。街中を走り抜けるような格好で足場の悪いところを自由に飛び回っている彼。そこに突然大きな岩が転がってきて、彼の右腕を挟んでしまった。

「岩場で身動きが取れなくなるって、こういう形でかぁ」と落胆してしまった。この場合だと、自分の腕を切るか岩が何かの拍子に動いてくれるのを待つしかない。苛酷な状況になってしまった。

彼はまず自分を落ち着かせて、リュックの中身を一つずつ出していった。役に立ちそうなものはほとんどない。食料も水もわずか。極限状態に近づいていく彼を見るのは本当に辛かった。ビデオカメラで自分を撮ることで何とか正気を保とうとするのだけれど、時間が経つにつれその内容も狂気じみてくる。今自分に振りかかっている災難を、今までの自分の生き方が引き起こしたものだと考える彼。家族や恋人に対する自分の態度を反省したりもするんだけど、もう二度とみんなに会えないかもしれない。

最終的に彼は生きて帰ることができるんだけど、その後も登山家として活動し続けたことに驚かされた。いままでと違うのはどこに出かける時も予定を記したメモを残すこと。もう二度と危ない場所には近づきたくないって思いそうなものなのに、不思議なものだな。

私はこの映画を観終わってから、これが実話に基づく作品だということを知った。「実話だとしたら、他人を誘って地下の湖に飛び込んだりしたらダメなんじゃないか??」と思ったのだが、そこは事実とは違うらしい。ややこしいな。原作になったアーロン・ラルストンの自伝『奇跡の6日間』も読んでみたい。

監督:ダニー・ボイル

脚本:ダニー・ボイル サイモン・ボーファイ