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【本】世界は「使われなかった人生」であふれてる

『世界は「使われなかった人生」であふれてる』 沢木耕太郎

沢木耕太郎の映画評を読んだ。 
映画評といっても、「何が傑作で何が駄作だ」と言う風に上から評価を下すタイプのものではなく、感想文のようなもので読みやすかった。 

映画には「ありえたかもしれない人生」について描かれているものが数多くある。 
あの時、彼と再会していれば…。 
自分の夢を諦めずにいたら…。 

「ありえたかもしれない人生」は、時間を巻き戻さない限り手に入れることのできないもので、だからこそ甘美なのだけど、それは未来への可能性も新しい物語も生み出さない。 

人生には、今生きている「この人生」と「ありえたかもしれない人生」、それともう一つ「使われなかった人生」というものがあると沢木耕太郎は語る。 

「使われなかった人生」というのは、本人が一度は手放したにも関わらずそれを惜しむ気持ちを持つときに存在するもので、その人生のうちには未来への意志を生む可能性が含まれている。 
つまり、遅れてしまったけれど、今からでも、その一部でも、使うことが可能な人生のことだ。 

「使われなかった人生」というものは誰にでもあるもので、「捨てたものは拾わない」という信条を最近覆したばかりの私も、「使われなかった人生」をもう一度使ってみようとしている人間の一人なのかもしれない。 

「使われなかった人生」が使われる時、そこに新たな物語が生まれる。 
それが、良いものか悪いものかは使ってみるまでわからないが…。 

「使われなかった人生」や「ありえたかもしれない人生」とは無縁と思われる男が登場する映画がある。 

パトリス・ルコントの『髪結いの亭主』。 
ジャン・ロシュフォールの演じるアントワーヌという男は、少年時代の夢想を実現させる。 
自分が何を望んでいるのかが驚くほど明確に自覚できていて、それを一途に想いつづけ、実現してしまう。 
その望みが大それたものでなく「髪結いの亭主になりたい」という些細なものであっても、「長年の望みを実現させてさぞかし幸福だろう」と観ているものは思ってしまう。 
だが、理髪師の妻を見つめるアントワーヌの顔は、《幸せの絶頂》とは言いがたいもので…。 
ジャン・ロシュフォールの《黙っているのに何か言いたそうな顔》はたまらなく魅力的なのだが、その表情によって、観ているものはこの話がハッピーエンドでないことを悟り、この幸せがいつまで続くのかヒヤヒヤしながら見守り続けることになる。 

長年の望みの実現が生み出した物語は、楽しいばかりのものではないのだが、それでもこの作品は、観るものの「使われなかった人生」とそれが生み出す物語への憧憬を呼び覚ます。 

この本で紹介されている作品のうち、私が観たことがあるのは『髪結いの亭主』『バグダッドカフェ』『春にして君を想う』『17歳のカルテ』『トゥルーマン・ショー』『ペイ・フォワード』の6本だけ。 
早速、他の作品も観てみたくなった。