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【本】私の男

『私の男』 桜庭一樹 文藝春秋 

結婚を控えた二十四歳の女性が「私の男」と呼ぶのは、彼女の養父。 
震災で両親と兄妹を一度に亡くした9歳の竹中花を当時25歳の腐野淳悟が引き取った。 
それからの15年間を二人で生きてきたのだから、絆が強く見えるのは当たり前なんだけど、この二人の仲の良さは尋常じゃない。 
性的な関係を持っているということと、実は二人が血のつながった親子であるということが物語の軸になっていて、家族というもののあり方について考えさせられる。 

血がつながっていてもつながっていなくても、結局、自分と誰かとは別人格なのだから、どんなに愛情があっても相手に関心があっても、本当のところでは相手の痛みや苦しさはわからない。 
そういう意味では誰とどんなに仲良くしていても、絶対的な孤独を消し去ってしまうことなんてできないはずなんだけど、この二人に関してはそれが消え去ってしまっているかのようだ。
お互いがお互いの所有物であるかのように寄り添っている二人の姿は、人間のあり方の限界を超えてしまっているように見えて、現実には存在しない空想上の生き物を見ているような気分になってしまう。 
禁忌を犯しているにも関わらず、甘美な印象を与えるのはそのためなのかもしれない。 

恋人との関係にしろ、家族との関係にしろ、距離の詰まったところでの人間関係は、生々しくならざるを得ないところがあって、例えば家族間で性的な話題を避け、お互いが性を持たない存在であるかのように付き合っていたとしても、息子にとって初めて身近に接する女性は母親なわけで、彼の母親との関係が、後に彼が男性として異性と接するという場面で全く影響してこないとは考えにくい。 

淳悟という男は、母親との関係でのつまずきを自分で消化する前に9歳の花にぶつけてしまう。 
花は彼の娘として彼に守られながら、ときおり立場を逆転させて母親のような包容力を見せる。 
花が淳悟との関係を普通のこととして受け止めてしまったのは問題だし、後に父親である淳悟に対して憎しみの気持ちを持つようにもなるのだけど、結婚を前にしてもなお彼から離れられないという思いも強い。 

花と淳悟の親子関係は健全な関係とは言いがたいけれど、ここまで極端じゃなくても、どの家庭でも何かしらの問題を孕んでいるのではないなかぁと、読んでいて思った。 
作中で「欠損家庭で育った人間はちゃんとした家庭を築くのが難しいのではないか」という趣旨の発言が出てくるのだけど、この人は「ちゃんとした家庭」としてどんな家庭を想定しているのだろう。 
外からみて「ちゃんとした家庭」を築いているように振舞うのはそう難しいことじゃないけれど、自分が家庭を築くうえで具体的にどういうものを目指せばいいのかは誰もわかっていないんじゃないかなぁと思う。 

個人的には「ちゃんとした家庭」で育つかどうかということよりも、自分の育った環境から自分が受けている影響を客観的な視点で自覚して、それとこれからどう付き合っていくかを考えられるかどうかの方が、重要な気がする。 
どこで育つかは自分で選べないし、そこから受ける影響も無視できないけれど、自分が受けた影響をこれから先どう扱っていくかという程度のことなら、自分の自由になるのではないかと思う。 

物語では結婚式直後までしか描かれないけれど、花がそこからどんな家庭を築いていくのか、夫とうまくやっていけるのかどうかがすごく気になる。