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【本】その後の不自由

『その後の不自由』上岡陽江・大嶋栄子(医学書院) 


私は薬物・アルコール依存の治療施設の存在は知っていたけれど、そこで行われていることについてはほとんど知識がなかった。 
仲間と励ましあいながら薬やアルコールを断って、規則正しい健康的な生活を送るというぐらいのイメージしかなかった。 
この本で対象になっているのは主に女性で、アルコールや薬物、自傷行為など自分の安全を脅かす行為にアディクトしてしまう背景に虐待や性犯罪被害の経験がある人たちだ。 
何とか地獄を生き延びたあとに抱え込む困難の一つとして薬物やアルコールへの依存を考えると、ただそれを断ちさえすれば問題が解決するわけではないということがよくわかる。 
かといって、過去のトラウマ体験を掘り起こしたところでどうにもならない。 
加害者に謝ってもらって仲直りという訳にはいかないのだから。 
どうすれば、過去の傷を抱えながらも自分の安全を脅かさずに自分を大事にしながら生きていけるのか。 
それは簡単なことではないけれど、この本で示される回復へのプロセスはそれを書いた人が依存症の当事者でもあるということもあってすごく具体的でわかりやすい。 
まず回復というのがどういう状態を指すのかというと、〈応援団をもつこと〉だという。 
私は薬物依存からの回復と言うと、「クスリをやめて何年か経って経済的に自立できること」だと思っていた。 
〈応援団をもつこと〉っていうのは何なんだろうと読んでいくと、それは他人と緩く繋がって「自分が困ったら誰かが手を貸してくれるだろう」という安心感を得ることだと言う。 
そんな簡単なこと?と思うが、苛酷な被害体験を持つ人たちにとってそれはなかなか難しいことだ。 
子どもの頃に自分を守ってくれるはずの人から暴力を受けると、家庭の外の人たちとも上手く繋がれない。 
親との関係が歪んだ形で密接になる反面、それ以外の人からは孤立してしまう。 
家庭内での問題を上手く説明して外に味方を作って逃げ出すなんてことは子どもにはできない。 
直接暴力を受けなくても家庭内でのもめごとで緊張状態に置かれたりすると、それを言葉にできなかったり、できても外の人には隠さないといけないという意識が働いてしまうので、親戚や近所の人、学校の先生、友だちなどが自分の味方として機能してくれない。 
結果として家庭内の不健全な人間関係に閉じ込められてしまって、外の関係から孤立してしまう。 
これが応援団の全くいない状態だ。 
こういう状況で幼少期を過ごしそのまま成人してしまうと、他人と適切な距離を取るのが難しくなってしまう。 
ニコイチの関係を求めてしまうのだ。 
ニコイチの関係というのは相手と自分が完全に理解し合えて、相手は自分を絶対に裏切らなくて、自分以外の人間を必要としないということだ。 
サッと聞くと当たり前の感覚のように思えるのだけど、ここでいうニコイチというのは「彼が私の話をよく聞いてくれて、浮気をしなくて、他の女の人と付き合いたいと思ったりしないこと」なんてレベルの要求ではない。 
まず理解してくれるというのは「言わなくてもわかってくれる」ということだし、自分を裏切らなくて自分以外の人間を必要としないというのは、「自分以外の人間との人間関係をいっさい持たない」ということだ。 
どう考えてもまともな人間はニコイチの要求に応えてくれないだろう。 
そのためこの状況にある女性はストーカーやDV、監禁といった行為の被害に遭いやすい。 
危険な人と危険な関係になってしまうのだ。 
安全な距離感の人間関係を築けるようになるのが薬物依存からの回復だとも言えるのは、寂しさに振り回されなくなるからだ。 
ニコイチ願望の強い人はそれが叶えられなかったり、自分の目の前にいる人間が応援団を持っているということを察すると、寂しさから薬物を使ってしまったり自傷行為をしてしまったりする。 
この状態の人にとっては「自分を全面的に受け入れてくれる人」と「自分と全く関係のない人」の二択しかない。 
いろんな人間関係があるんだということが理解できないし、誰かとニコイチになることは誰にもできなくて、みんなちょっと寂しいぐらいの状態で人との距離を保ちながら長く付き合っているんだということも理解できない。 
それが理解できるようになれば安全な距離で他人と付き合えて、寂しさに振り回されることもなくなるんだろうけど、それには何年もかかってしまう。 
まずは医療従事者、施設のスタッフ、自助グループの仲間などと信頼関係を築いていき、それを徐々に社会的な人間関係に置き換えていく。 
施設では誕生日や行事をみんなで祝う「思い出づくり」を通して上下関係や支配関係ではない人間関係に出会うこと、体の手当てをしてもらう経験を通して自分を大切にしていいんだと知ることなど、薬物を断ったり規則正しい生活をする以外にも治療のプログラムとして効果的なことが色々と考えられて組み込まれているそうだ。 
人との関係の築き方を学ぶということが薬物・アルコール依存の治療施設で必要とされる支援だということを知らなかったので驚いた。 
残念なのは、この支援にたどり着けるのがだいたい28歳ぐらいになってしまうことが多いということだ。 
学校を出て、家族からのサポートも受けられなくて、定職にも就けなくて、刑務所に入ったり、男の人を渡り歩くという形で何とか生き延びて、それが行き詰ってやっと援助の場にたどり着く人が多いそうだ。 
とにかく生き延びて適切な支援を受けられればまだマシな方で、それまでに犯罪に巻き込まれたり自殺をしてしまったりする人も少なくない。 
何とかもっと早く病院や警察から福祉施設に繋がれればいいのにと思うけど、前に読んだ『累犯障害者』でもそうだったみたいに問題行動が本人の責任にされてしまって必要な援助が受けられないケースが多いみたいだ。 
ノウハウのある専門家の支援を受ければ生きやすくなる人たちが長年苦しみ続けなければいけないのはやりきれないし、理不尽な暴力がその瞬間だけでなく被害者のその後をずっと痛めつけ続けるという現実に腹が立って仕方ない。 
被害者の多くは被害者でありながら加害者の面も持ってしまう。 
他人を振り回したり迷惑をかけたり犯罪行為に手を染めてしまったり。 
そうでもしなければ生き延びてこられなかったのだから自分をいたずらに責める必要はないと思うのだけど、著者は「自分のしてきたことをなかったことにしないでくれ」と言う。 
「表面に見せている自分と等身大の自分の違いを大きくしてしまわないことが、再び何かにアディクトしてしまわないためには重要だ」という意見には説得力がある。 
自分から逃げずに自分のしたことに責任を持つということができるのは、自分を大切にできている証拠だからなぁ。