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【本】何も持たず存在するということ

『何も持たず存在するということ』 角田光代 (幻戯書房

新聞とか雑誌とか色んなところに掲載された角田さんのエッセイを集めたもの。 
本を読むことや書くことに対する考え方や、『対岸の彼女』や『ロック母』など角田さんの作品が書かれた時の角田さんの心情が窺えるのがよかった。 

角田さんが好きな『ピンク・フラミンゴ』という映画を私は観たことがないのだけど、角田さんによると随分バカバカしくて下品な作品らしい。 
角田さんはこの作品が好きだということをあまり人に言わないそうだ。 
「人と会ったり文章を書いたりしても曝さない自分の一部があるとして、その部分でこの映画を愛している」と角田さんは言う。 
ピンク・フラミンゴ』に反応する自分というのが、角田さんにとって【自分の一番信用できる部分】なのだそうだ。 

何となくわかる気がする。 
私は「何らかの対象にぶつかった時に何を感じ何を考えるか」が自分の核になる部分だと思っている。 
社会的な地位というか、職場や家庭で自分が何かしらの役割を果たせているという実感は、ないよりあった方が嬉しいけれど、そういうのが消えちゃったり薄くなったりすることは誰にでもあって、そんな時に自分を支えてくれるのが「感覚する主体としての自分」なんじゃないかなと思っている。 
生身の自分が対象と向き合って何かを掴み取ってくるということは、社会的地位も他人からの評価も関係ない世界で、その部分においては何があっても自分が自分であり続けられるような気がする。 
他人に承認されたいという欲求が自分にあることを否定するつもりはないけれど、それとは別に自分の中に他人を立ち入らせない部分も持っていたい。 
自分が自分のいいと思うものを「いい」と言うことは、自分がどういう人間かを示すことでもあって、単独で自分の立ち位置を示すのはちょっと怖いのだけど、だからこそ自分が何かを「いい」と思うその感覚を大事にしたいし、それを表現する時には敵も味方も必要とせずに一人でぽつんと立っていたいなと思う。 
自分が何をどう感じてそれをどう表現するかということに真摯でい続けることは、色んなものを失った時の自分にも唯一残されるもので、それが社会的な地位や他人からの評価とは別の部分で、自分の自信になってくれるような気がする。 

同じ作家さんの作品を追いかけて読んでいくと、似たようなテーマが繰り返し出てくることがある。 
その作家さんにとっては興味のあるテーマでも、読む人にとっては特に考えたいと思ったことのないテーマかもしれない。 
だいたい本を読むときに、「テーマを掴みにかかって、それについてその作家さんがどう考えているのかできるだけ寄り添って理解しようとして、自分でも同じテーマについて考えたい」と思っている人はあんまりいないのかもしれないけど…。 
私は繰り返し同じテーマが出てくると「また?」と思うことがあったのだけど、それを「飽きた」とか「くどい」とか言ってしまうのには何だか抵抗があった。 
多分それは作家さんが本気で突き詰めて徹底的に考えていることなんだろうなって思っていたから。 
今の自分にとってあんまり関係のない話のように思えても、書く人にとって切実な問題なんだったら似たようなことを何回も言っているように聞こえても納得いくまでしつこく書き続けて欲しいと思う。 
読者の中にもきっと同じテーマを切実に考えている人はいるはずだし、今は考えていなくてもいつか考えざるを得なくなる問題かもしれないし。 
それに、もっと丁寧に読んでいけば繰り返し同じことを言っているように見えても変化している部分があるのに気付いたりする。 
そんなところを追っていくのも楽しい。 

角田さんのデビュー作『幸福な遊戯』とその十二年後に書いた『空中庭園』が「家族ってなんだ?」というおんなじ疑問のもとに書かれた小説だというのを聞いて、自分の好きな作家さんの作品をデビュー作から丁寧に読んでいく作業は面白そうだなと思った。 
近いうちにやってみたい。