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【本】浮世の画家

浮世の画家』 カズオ・イシグロ (ハヤカワepi文庫) 


一人称の語りによって回想を交えながら物語が進行していく。すでに終わってしまったことを振り返るので、常に「取り返しのつかないこと」の影が付きまとう。その不穏な感じが好き。

カズオ・イシグロの作品に出てくる子どもは子どもらしいようで子どもらしくない。大人が言いよどむようなことを平気で口にするあたりは子どもらしいのだけど、無邪気な印象は与えない。子どもは大人が期待するほど素直で単純にはできていなくて、大人と同じようにねじくれた気持ちや秘密を好む性質を持っている。それを大人以上にストレートに出してしまうので、見たくないものを突きつけられるような瞬間があったりして、ちょっとヒヤっとする。子どもが狐にでも憑かれているんじゃないかと思えるような不気味な態度を取るところが作品全体の不穏な感じを強めていて、カズオ・イシグロの子どもの描き方も好きだ。 

主人公は戦時中に戦意高揚を目的とした作品を描いていた画家。戦後、価値観が一変した世の中で、周りの人間の自分に対する態度の変化と自分が信じてきたものが覆されたことに戸惑いながら、美術界から遠ざかって毎日を過ごしている。一番の気がかりは次女の縁談。順調に進んでいると思っていた縁談が直前になって破談になってしまった。相手側が断ってきた理由ははっきりしないのだけど、次女や長女、長女の夫、昔の弟子などの態度を画家の視点で追っていくと、どうやら画家の過去がよく思われていないのが原因になっているようだ。 

画家の口から彼の過去に対する彼の意見をなかなか聞くことができないのだけど、外堀を埋めるような感じでじわじわと彼の過去が浮かび上がってくる。 

記憶が確かであれ不確かであれ過去の自分に関する記憶が現在の自分に及ぼす影響は小さくない。自分の過去の行為そのものが現在の自分を作ってしまうのと同じように、現在の自分が自分の過去の言動をどう捉えるかも現在の自分を形作る一要素になってしまう。過去、現在、未来を通して自分が自分であるという自己同一性の感覚は自分に安心感を与えてくれるものだけど、それが時々自分を苦しめもする。社会の変化とともに自分に対する評価をし直さねばならなくなった画家の葛藤を私まで何かに脅かされているような気分になりながら追って行った。

張りつめた空気の中、息を詰めて画家の思いを聞いていた私を驚かせたのは、画家の周囲の人たちの反応。彼の決死の告白が肩透かしを食わされてしまう。想像以上に世の中が自分を高く評価していることに驚くことがあるのと同じように、自分が思う程自分が世の中に対して影響力を持っていたわけではないと思い知らされることもある。一人称の語りで丁寧に進んでいくにも関わらず、すべてが明らかになるようなこともなく、彼が何者なのか、どういう評価が彼に対して妥当なのか、わからないまま話は終わってしまう。ただ一つの真実なんて存在しないのだからそれは当然なのだけど。 

作中の登場人物のやり取りから登場人物の意見や思いを汲み取るのは難しい。誰もはっきりとは自分の考えを表明しない。登場人物同士の会話の場面で、返答を待つ一方に他方が何の返事も与えないということが何度か出てくるのだけど、そういう場面が印象的だった。返事の代わりに床下をネズミが這い回る音がしたり、雪がドサッと落ちる音がしたり。言葉を使わずに登場人物の心情を表わされると、何となく彼らの心情を推測できるものの、その推測が当たっているかどうかいまひとつ自信が持てない。自信が持てないまま少し立ち止まると、「仮に言葉ではっきり表明してくれたとしても、それをどこまで正確に捉えられるかは怪しいものだな」と思い至る。 

カズオ・イシグロの作品を読んでいると、他人のことも自分のことも、私が普段思っているほどしっかり掴むことなんてできないんだろうなと思い知らされる。自分が安心して立っている足場が実はいつ揺らいでもおかしくないものだということを感じさせられるのは、不安でありながらもなぜか心地いい。