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ツイッター @hyokofuji ミサ

【映画】仕立て屋の恋

仕立て屋の恋』 1989年 フランス

イールという仕立て屋の男が向かいに越してきた女性の部屋を覗き見ている。ある日女性は覗かれていることに気づいて、その瞬間から二人の関係が変化していく。

覗かれていた女性アリスがイールに接近するシーンが一番好き。階段の上から袋に入ったトマトを転がすのだけど、その赤の鮮やかさと彼女と対面した瞬間のイールの表情がいい。

今までは自分が見られることを意識せずに一方的にアリスを見つめていたイール。彼女の視線を自分が受けることになって、彼の中で彼女に対する思いが変わっていく。

誰かを知っていくということは、誰かを少しずつ自分の理解の範囲内に収めていくことでもある。アリスに向かって「見ていただけだ」と言う彼だけど、「見る」という行為は控えめなようでいて、《他人を自分の支配下に収める》という暴力的な要素を含んでいる。「相手からも自分が見られている」ということを想定していない時、それは《相手を一方的に客体として扱う行為》になってしまうからだ。

覗かれていたことに対して「あなたを恨んでいない」と彼女が言うところが印象に残った。彼と親しくなっていく彼女を見ていると覗かれることを心地よく思っているようにも見えるのだけど、彼女が彼の行為を非難しなかった理由はそれだけではない。人を「物」扱いするということでは、彼女の方が彼の上を行っている。それが明らかになるラストが切なかった。

作品全体を通してイールが「見る」側と「見られる」側を行ったり来たりするところが面白い。

ボウリング場で見事なテクニックを見せて観客を惹きつけるイール。この時の彼は見られることを楽しんでいる。おとなしそうに見える彼がニヤリと得意げに笑ってみせるところがよかった。

スケート場で転倒した彼が思わずみんなの注目を集めてしまうシーン。このシーンでは彼は他人から見られることをひどく嫌がっている。心配して手を貸してくれる人を振り払ってリンクの外に出て行く彼がなぜスケートリンクにいたのかというと、アリスとその婚約者を尾行していたからだ。

「見る」側と「見られる」側をひょいひょい行き来する彼を追っていると「見られる」側が必ずしも受け身なのではなく「見せつける」という見られ方もあるのだということに思い至る。ただ見られていたアリスが、見られていることを意識することで主体性を回復するのはそのためだろう。

アリスが見られていることを意識しながら見られるようになる場面で、イールの覗き行為は一方的なものではなくなる。二人の関係が共犯めいたものになっていくところに惹きつけられてしまった。

アリスとイールの関係が近づいていくところで、匂いをかいだり触れたりという視覚以外の部分で相手を感じるシーンが出てくる。見ているだけの時に比べてイールの喜びはどんどん大きくなっていくのだけど、それと同時に彼の立場は以前よりずっと危ういものになっていく。

イールが彼女に掛ける言葉は驚くほどストレートだ。言葉だけを拾ってみるとよくある紋切り型の大げさな表現なんだけど、彼の口からそれが出ると悲しいほど切実に響く。

彼女に接近していくことでいくらかは彼女を自分の世界のうちに置くことに成功したイールだけど、だからこそ彼女は彼の手の内から滑り落ちて行ってしまう。自分の世界の外にあるものとして見つめていた時には手に入らなかった喜びを手に入れることができたけれど、そのかわり一度自分の世界のうちに収めてしまったものは二度と自分の目に触れないところへ消えて行ってしまう危うさをも持つ。

最後に彼がアリスにかけた言葉が印象的だった。

「笑うかもしれないけど、恨んでないよ。ただ死ぬほど切ないだけ」

「死ぬほどの切なさを代償にできるだけの喜びを与えられた」と言い切れる彼が、その自分の確信を「笑うかもしれないけど」と表現するところがすごくいい。

私はイールの心の動きに焦点を当てて観ていったのだけど、殺人事件が絡んでいたりもするので、サスペンス的な要素も楽しめる。

原作になったジョルジュ・シムノン『イール氏の犯罪』(邦題:『仕立て屋の恋』ハヤカワ文庫)も気になるので、近いうちに読んでみたい。

監督:パトリス・ルコント

脚本:パトリス・ルコント パトリック・トヴォルフ

原作:ジョルジュ・シムノン『イール氏の犯罪』