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【本】村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹河合隼雄に会いにいく』 河合隼雄村上春樹 (新潮文庫

村上春樹河合隼雄の対談。河合隼雄ユング派心理学の第一人者で心理療法家。二人とも自分の中から言葉を出してくる人だから話を聞いているのが楽しい。

私は心理学の知識がほとんどなくて箱庭療法がどういうものなのかもよくわからないのだけど、この方法はスイスで生み出されたにも関わらず日本人の治療において特に有効なんだそうだ。「欧米人と日本人の違い」というふうには一概に言ってしまえないものだとも思うのだけど「箱庭療法が有効な人とそうでない人がいる」ということには説得力があった。

私は何か精神的に大きなダメージを受けるようなできごとがあると、言葉に頼ることが多い。だから私以外の人も言語化することで自分の問題を整理して解決させているのだと思っていた。だけど河合さんの話を聞いて言語化することが必ずしも誰かが立ち直るうえで有効な方法ではないのだということに思い至った。問題を顕在化させずに曖昧なままやり過ごすことで精神的な危機を乗り越える人もいるそうだ。患者さんの抱えている問題を言葉でどんどん分析させるより、「箱庭でも作ってみましょうか?」と緩やかに入っていく方がいい時もある。言われてみればその通りで「正面切って向かい合う」という戦い方が合わない人もたくさんいるだろう。

河合さんによると、日本では何か問題が起こった時に家族間でブツブツと文句を言い合ったりちょっとした喧嘩になるところで止まって、誰かが激しい症状を出すということにならずに済むことが多いそうだ。河合さんは初めこれをプラスに受け取っていたそうなのだが、よく考えるとこの現象にはマイナス面もあると言う。「身体症状を引き起こさない」という点ではプラスだけれど「問題を自分ひとりで引き受ける力が弱い」という点ではマイナスだからだ。

たとえば自然災害が起こった時、それを「自分の問題としてどう引き受けるか」というところに至らず、集団に降りかかった問題として片付けてしまう。衝撃を「個人」で受け止めずに「全体」で受け止める。「個人」であることが当たり前のように要求されるアメリカとそうではない日本とでは震災後のPTSDの出かたが随分違ったそうだ。アメリカのノースリッジ地震の時と比べて、神戸の地震の時のPTSDの発生件数はずっと少なかったという。

河合さんのところへ訪れる患者さんの中にも「その人を見ているだけではあまり苦しそうに見えないのだけど周りの人がなんとなく苦労をしている」というケースがよくあるらしい。自分の受けた傷を自分で処理することができずにみんなに分かち与えてしまう。それで「お前がもう少ししっかりしてくれたら」とお互いに言い合ってしまう。責任がみんなにあるという発想だから「私の不幸を何とかしてちょうだい」という格好になって「結局自分で乗り越えるしかない」というところにたどり着きにくい。「問題を解決すること」や「治ること」を目的とするのではなく、「問題を抱えたままでも何とか生き延びていくこと」を目的とするなら、私はこのタイプの人たちはそのままでいてもいいような気がする。人によって許容量が違うということを認めないわけにはいかないし。

ただ、この本を読んで「身体症状が出てしまうこと」が必ずしも悪いことではないということにも気付いた。私は「嫌なことを我慢して体を壊しちゃうぐらいなら、逃げたり放り出したりしていいと思うよ」とよく言っていたのだけど、体を壊してでもグッと引き受けた方がいい時もあるようだ。自分の受けた傷を自分で処理しようとして失敗して症状が出てしまっても、それを乗り越えて強くなっていく人がいる。そう聞くと「体を壊すぐらいなら逃げた方がいい」とも言い切れない。危機を乗り越える方法も人それぞれで、誰にでも通用する方法というのはないんだなっていう当たり前のことが意外に分かっていなかった。

本を通して専門家の話を聞かせてもらうと、自分とは違うタイプの人のことを知識として頭で理解することができる。そういう機会がないと、ろくに検討しないまま自分にとって役に立つことが他の人にとっても役に立つだろうと思い込んでしまう。心理学や社会学の本を読むことは自分のことを客観的に見るためにも必要なことなのかもしれない。

この本で話題になっていることは《人が自分を支えていくために何を必要とするか》という誰にとっても避けることのできない問題なのでとても読み応えのある内容なんだけど、それが簡単な言葉で気楽に読めちゃう感じで書かれていることに驚いた。村上さんはまえがきに「ビールを飲んだり食事をしながら、頭に浮かんだことをそのまま語り合った」と書いている。本当にそういう感じで会話が自然に流れていくので、大事な話をうっかり聞き逃してしまいそうだった。短時間で読める本なのだけど、読んでいる間中「気が抜けないぞ」と思っていた。

ガイアシンフォニー』という映画の話が面白かった。「自分はイルカになる」と言って100メートルも素潜りで潜ってしまうジャック・マイヨールと、「自分は山になる」と言って8000メートル級の山に酸素ボンベなしで登るラインホルト・メスナーが登場する。言っていることはどっちも一緒なのに、一人は海にしか興味がないし一人は山にしか興味がない。他人には全く理解できなくてもその人にとっては生きる上でどうしても必要なものがある。何をするかは人によって違うけど、その人にとってものすごく大事なことを生きねばならない。そこを生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくると河合さんは言う。

村上さんにとって小説を書くことはお金を稼ぐための手段というだけではなくて、自分を治癒する行為でもあるそうだ。そういう意味ではジャック・マイヨールやラインホルト・メスナーと同じく自分も小説家になるしかなかったと村上さんは言う。村上さんは自分が欠落部分を抱えているということに意識的で、その欠落を埋めようとする行為が自分にとって小説を書くことだったと説明する。欠落部分があること自体は人間にとってネガティブなものではないから欠落部分のない人間を目指す必要はないのだけれど、欠落部分がある以上それを埋めたいという欲求もあって、その欲求が作品を作り出す原動力になると村上さんは言っていた。

そういう個人的な作業がどこかで他の人にも通じるものになって、作品を作り出す人だけでなくそれを受け取る人にとっても《自分を支えるうえで必要なもの》になっていく。そういう物語の力に私は魅力を感じる。(本だけでなく映画や音楽にもそういう要素があると思う)

私にとって読書は、誰かと価値観が同じであることを確認したり自分のあり方を肯定してもらうためにすることではない。自分の価値観やあり方をよしとするのはあくまで自分一人の力ですることだ。そのうえで、全然違うように見える自分以外の人たちと深いところで通じ合っていると感じる瞬間があると心強い。私はベタっと団結して価値観を同じくすることを求め合う関係より、「個」であることに責任を持ちながら自分以外の人とも連帯していくような人間関係に魅力を感じる。