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【本】翻訳夜話

『翻訳夜話』 村上春樹 柴田元幸 (文春新書)

柴田元幸の翻訳教室に村上春樹がゲストで登場。二人が翻訳について語ったり、学生からの質問に答えたりする。その内容をまとめたものがこの本。さらにオースターの『オーギー・レンのクリスマスストーリー』とカーヴァーの『収集』を村上訳・柴田訳で比べてみたり、翻訳を仕事にしている人たちと座談会をやったりもする。充実の内容!

翻訳の技術的な方法を解説するのではなく「翻訳とはどういう作業なのか?」という本質に迫る内容なので、翻訳に縁のない私が読んでもとても面白かった。

翻訳に必要なのは語学力だと思っていたのだけど、村上春樹によるとそれはあまり重要ではないらしい。語学力はもちろん必要だけど、それ以上に大切なものとして「作品に対する愛情」が挙げられていた。

「テキストと自分との間に親密で個人的なトンネルのようなものができていれば、技術的な困難を乗り越えるのはそう難しくない。文章の骨の髄を自分が掴んでいるという確信があれば、今すぐ上手く訳せなくても大した問題じゃない。でもその確信がなければ、どんなに語学力や文章力があっても、どんなに努力しても、ほとんどどこにもいかないんじゃないかな」と村上春樹は言う。

村上春樹は趣味というか生活の一部として翻訳を始めたそうだ。英語の文章を読んでその文章の素晴らしさに感動して、「この素晴らしさに自分も参加したい」と思って、英語を日本語に置き換える作業を始めたらしい。自分が創作主体ではなくあくまでも一読者でしかないところで、それでもその作品に関わるものとして主体的に作品の素晴らしさに参加したいという気持ちは、私にもよくわかる。

村上春樹は小説家として創作主体でもあるわけなんだけど、そんな村上春樹の小説に対する考え方が興味深かった。小説ができあがってしまえばもうそれは作者からも独立したもので、その小説について「どの読み方が正しいか?」という問いには作者さえも答えを出すことができない。村上春樹のこういう考え方が私は好きだ。

自分の読み方には自分がどういう人間かが自然と出てしまうものだから、それを世間に受け入れられやすいように改変するわけにもいかないんだけど、かといって自分の読み方を絶対的に正しいものとして打ち出すのもちょっと違うような気がする。自分の読み方には徹底的にこだわるけれど、自分とは違った読み方をする他者の存在を無視してしまいたくはない。

「自分の読み方も含めてどの読み方も同じだけの値打ちがあるものとして扱う」という村上春樹の態度は翻訳をする時にもよく表れている。柴田元幸村上春樹で同じ作品を訳してみるという試みが非常に面白かった。

ポール・オースターの『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』。「オースターといえば柴田さん」なんだけど、私は村上春樹訳の方が好きだった。どうしても譲れない一文があったのだ。

「信じる相手が一人でもいるかぎり、どんな話だって真実になる」(村上春樹訳)

これが柴田元幸の訳だと「誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ」となっている。

「言っていることは同じなのに、どうしてもここが引っかかってしまうのはなぜなんだろう?」って思いながら、二人がお互いの訳を自分のものと比べて意見交換しあう部分を読んでいった。

『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』のラストについて、柴田さんが自分と村上春樹の違いについて説明してくれているのだけど、その部分が興味深かった。柴田さんは《「私」のオーギー・レンに対する疑いの気持ち》と《「オーギーの話した物語自体は事実であろうとなかろうと真実だ」という逆説》を相反するものとして強調したかったそうだ。そう考えると「本当でない物語などありはしない」という表現になるのもわかる気がする。

村上春樹の訳は「私も一人の人間であり、オーギー・レンも一人の人間である」という立場に立っているのではないかと柴田さんは言う。確かにそういう立場に立つと、この一文は肯定的にポンと言い切ってしまいたくなるような気がする。「どんな話だって真実になる」という訳を私がたまたま気に入ったのも、おそらくこの点において村上さんと同じ立場に立っているからだろうと思う。読み方や翻訳の仕方には人格が表れてしまうものなんだなって改めて思った。

柴田さんが読み方について語っている部分を読んで「字が読めれば本が読める」というものでもないんだなって思った。「原作をちゃんと理解できさえすれば、それを別の言語で置き換えられないはずがない」と翻訳をする人はよく言っている。村上春樹も、柴田元幸も、以前読んだ『翻訳の秘密』の小川高義も言っていた。だから《本をちゃんと読めるようになること》が翻訳をするにあたって一番大事なことなのかもしれない。私は翻訳をする予定はないけれど、本をちゃんと読めるようにはなりたいので、柴田さんの言う次の部分は心に留めておこうと思う。

「よく読めるようになるというのは、お腹のあたりにもともと潜在しているその人のバイアスが、そのまま言葉として出てくるようになるということなんですよね。余計な紋切り型や正解に回収されてしまわずに。それまでは、客観的にはいちおう正しいといえそうな、でも人を退屈させるようなことを言ったり書いたりしていた人が、だんだん自分の『偏見』を出していくというのが、僕から見た『よく読めるようになる』ということです」(p.195)

《本をちゃんと読めるようになること》が小手先のテクニックで実現することではないのがよくわかる。自分の中にある「バイアス」とか「偏見」というものが本を読むうえでは必要なようだ。

直接的な自己表現の形を取らずに自分の偏見を出す方法を村上さんは面白い表現で説明する。

「カキフライについて書きなさい」

カキフライというのは《自分の好きなもの》のことだそうだ。自分のことを書くんじゃなくて自分の好きなもののことを書く。自分とカキフライの間の距離を書くことによって自分を表現する。そうすれば自然に自分を相対化する視点を持ち込むことができるから、説得力のある文章が書けるそうだ。この部分を読んで「なるほど」と思った。文章を書こうと思ったら、自分と上手く距離を取ることがどうしても必要になってくる。「カキフライについて書け」というアドバイスは具体的でいいなと思った。ただ、私はカキフライが好きじゃないので、「なんで、カキフライ?」って思ってしまったのだけど。

【本】あのひととここだけのおしゃべり

『あのひととここだけのおしゃべり』 よしながふみ太田出版

よしながふみと漫画家さん、作家さんたちの対談集。作り手でありながら熱心な読み手でもある人たちの話を、隣で聞いているようなつもりで読んでいけるのが嬉しい。登場するのはやまだないと福田里香三浦しをんこだか和麻羽海野チカ志村貴子萩尾望都

特に三浦しをん羽海野チカが登場する章が印象に残った。

三浦しをんよしながふみの対談では、二人が作り手として「どんな風に読者に読んでもらいたいか」という話をしているのが興味深かった。「自由に読んで欲しい」そうだ。自分が全く意図していない読み方をしてくれる人がいたり、とんちんかんなことを言う人がいても、そのことがむしろ救いになるというところが面白かった。自分が駄作だと思っているものでも、みんなからつまらないと思われてしまったらさすがに辛いというのはよくわかる。評判がよすぎても怖いし、好きな人も嫌いな人もいる状態が一番いいんだろうな。

「自分が意図した通りに読んで欲しい」とか「自分についてこられる人だけがついてくればいい」という考え方もあるのかもしれないけれど、そんな風にならないところがこの二人の魅力だと思った。二人の作品を読んでいると、みんなから好かれるために色を薄めてしまっているわけでもないし、届くべき人には確実に届くように勝負をかけているのがわかる。だけど「届く人にだけ届けばいいや」っていう閉ざした感じもしない。わからない人もわからないなりに楽しんで読めてしまうところに懐の深さを感じる。

私は二人の書く作品に出てくる《精神的に大人な人たち》が好きなのだけど、それは間違いなく作者であるこの二人が精神的に成熟しているところから出ているんだと思う。

読者に対しては「好き勝手なことを言ってくれていい」という二人だけど、自分たちが読み手になる時には、愛情深くて分析的なところを見せる。自分にとっての「合う・合わない」だけで、作品を切り捨ててしまうことはしない。これが読み手としての矜持だと私は思う。

「自分が意見を表明する時には常に誰かを傷つける可能性がある」ということに対して意識的なところも、精神的に大人であることの証拠だと思った。よしながふみ三浦しをん羽海野チカも漫画を自分を肯定してもらうための道具として読んでいるわけではないのだけれど、「読者の中には自分の価値観を否定するような世界を見せつけられるのが嫌な人もいる」というのを念頭に置いている。だから、自分の目に触れるところに自分の作品に対する悪口が書かれていたら、自分の提示した世界が誰かにとって受け入れがたいものだったり、誰かを嫌な気分にさせてしまうものだったんだなって思うそうだ。その辛さは「自分の人格が否定された」っていう辛さとは全く違うと言っていた。

これは作品を作る人間じゃなくても日常的に感じることだなって思う。「自分の意見が誰かにとって不愉快なものであるかもしれない」ということからはどうしても逃げられない。そこから逃げようと思えば、意見を出す前にどんな意見が周囲に受け入れられやすいかを正解をはじき出すように計算しなければならなくなってしまう。それでも誰かを傷つける可能性をゼロにしてしまえるわけではないし、そうすることで自分から離れて行ってしまう人も出るだろう。誰かを傷つける可能性が自分にあることを引き受けようとしないことは、誰かを傷つけてしまうことそのものよりもタチが悪い。誰かを傷つけることを恐れながら、それでも自分が嫌われる可能性を引き受けて勝負をかける。そうすることでしか手に入らないものや見えないものも確かにあるなって思った。

羽海野チカよしながふみに初めて会った時、「適当なことをTPOに合わせてしゃべってたら、この人の心のドアは開かない」と思って勝負をかけたっていうエピソードが面白かった。よしながふみにはその誠実さがちゃんと響いて、それをきっかけに二人の関係が深まったからよかったけど、これはなかなか勇気のいることだ。二人の関係は本当に羨ましくなるほどいい関係で、二人の話を聞いていて「この人たちめちゃくちゃかっこいいな」って思うところがいくつもあった。

よしながふみが数年前の自分の態度を反省して、当時の担当さんに改めて話をしに行ってお礼を言ったというエピソードには驚かされてしまった。担当さんが自分の名前でドラマの現場に差し入れをしてくれていたことに対して、その度に「ありがとう」と言っていたものの、数年後羽海野チカの話を聞いたのをきっかけに、自分のお礼の言い方が担当さんの行為に見合うだけのものではなかったと思ったらしい。数年経ってから「自分のしたことがベストではなかった」と思い至ったとしても、たいていの人は「自分はそんなに間違ったことをしたわけでもない」ってところに話を落ち着けてしまうだろう。自分のダメだったところを率直に認めて行動できてしまうところが、よしながふみのかっこいいところだなって思った。

羽海野チカは《生き延びれば自分に合う場所へ辿りつける事もある》っていうのを漫画を通して伝えたいそうだ。それが自分の使命だと言っていた。よしながさんが「人の生き方は漫画に出てしまうから、自分が人間としてどう生きるかは大切」という話をすると、羽海野さんが「『ハチクロ』は《何があっても最後は前向きに》という話にしようと思っていたから、6年間ずっと自分が前向きでいなきゃいけなくて大変だった」と言う。「6年間ずっと前向き」っていうのにちょっと笑ってしまったけれど、こういう一貫性がいいなって思う。自分の中にはっきりと書きたいテーマがあって、漫画と本人の言ってること、考えてることに違いがない人っていうのは最高にかっこいい。そういう人がみんなから好かれるわけじゃないっていうのはよくわかるけど、私はこれからもこういう人たちの書く作品を読みたいと思うし、こういう人たちがいてくれて本当によかったって思う。

【映画】世界最速のインディアン

世界最速のインディアン』 2005年 ニュージーランドアメリ

1000cc以下の流線型バイク世界最速記録保持者、バート・マンローがモデル。

ニュージーランドのおじいちゃんが自分の持っている80キロ台のバイクを改良して、288キロまででるようにするのも驚きだが、一人でアメリカのボンヌヴィル塩平原のレースに参加するというのもすごい根性だ。レース開催地までの道のりでこれでもかと災難が降りかかる。出会う人たちに愛され助けてもらえるのは、彼の人柄のためだろう。運もなかなか強い。船で運んだマシンの木箱がグシャっとつぶれていた時には「もう駄目なんじゃないか」と私の方が諦めそうになった。

彼は世界記録に挑戦しに来たのだけど、誰もそれが達成できるなんて思っていない。世界記録どころか、レース前のチェックにも合格しないレベルのマシンで、さらに事前登録もされていない。規定では参加資格さえないのだけれど…。特別に参加させてもらった彼が世界記録をたたき出すシーンは圧巻。

世界記録が出たのも嬉しいけど、それに満足せずその後も毎年レースに参加し続け記録を更新したというのが何より嬉しい。すごいおじいちゃんがいるもんだ。彼を演じているアンソニー・ホプキンスがすごくかっこよかった。

【本】三四郎はそれから門を出た

三四郎はそれから門を出た』 三浦しをん (ポプラ文庫)

書評には人柄が出るものだなって改めて思った。作家さんのブックガイドの中には面白いものが多いような気がする。作り手でありながら読み手としての矜持も持っていて、自分の作品の読者に対しては寛容な態度を取る。そういう作家さんを見ていると、かっこいいなって思う。三浦しをんの小説はサラッと読めるようでいて深みがあるので大好き。エッセイはいつも大笑いしながら読んでしまう。そして小説やエッセイを読んだ時以上に私が三浦しをんの魅力を感じたのがこの本。

「私にとっちゃあ、読書はもはや『趣味』なんて次元で語れるもんじゃあないんだ。持てる時間と金の大半を注ぎこんで挑む、『おまえ(本)と俺との愛の真剣一本勝負』なんだよ!」と叫ぶ三浦しをんの書く読書エッセイが面白くないわけがない。

この本を読んで、読みたい本がまたまた増えてしまった。三浦しをんのスゴイところはふざけた話と真面目な話を地続きでできるところ。バカバカしいものに対してもシリアスなものに対しても、同じように真剣に接しているんだろうなって思う。そういう人の書く文章を読んでいると何だか心強い気分になってくる。こんな短い文章でこれだけ多くのことを伝えることができるものかと、何度も驚かされた。ストレートな表現も力強くて心地いい。

私が読みたくなった本をいくつか紹介してみる。

『ドスコイ警備保障』 室積光 (小学館文庫)

ドスコイ警備保障 (小学館文庫)
ドスコイ警備保障 (小学館文庫)
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引退したお相撲さんたちで作った警備会社を舞台にした小説。誰でもずっと勝ち続けられるわけじゃないし、挫折してしまってもそこで人生が終わるわけではない。お相撲さんたちの第二の人生を描いた小説に、しをんさんの付けた解説がすごくいい。

「周囲の用意した階段を上るためではなく、自分自身の価値観に基づいて努力するのなら、たとえ失敗に終わったとしても、努力もあながち無益なことではない。そう信じられる気がしてくる」

しをんさんは自分の書評を「本に対する愛情がほとばしりすぎて暑苦しいかもしれない」と言うが、暑苦しいのは本に対する愛情のためだけではないような気がする。多分、仕事に対する態度も含め生き方自体が相当暑苦しいんだろうと思う。私はこういう暑苦しい人が好きだ。

『図書館の神様』 瀬尾まいこ (ちくま文庫

図書館の神様 (ちくま文庫)
図書館の神様 (ちくま文庫)
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この小説は私も大好きな本で「本が好きな人ならみんな共感できるんじゃないかな」と思ったのだけど、しをんさんは「読書が苦手な人もきっと共感できる作品だ」と言う。本が好きでもないのに文芸部の顧問になってしまった新米国語教師と本ばかり読んでいる男子高校生の交流を描いたもので、図書室や本の魅力がよく表れている作品だと思う。しをんさんが簡潔な言葉でこの作品の舞台である図書室の魅力を表現してしまう部分に感動した。

「読書が、悩める人を救うのではない。静かに本を読み、自分を見つめた者自身が、自分を救うしかないのだ。ちょっと立ち止まって、一息つくための場所」

直球勝負が見事に成功を収めている。潔い文章だ。

しをんさんの書評を読んでいると本の魅力もよく伝わってくるけれど、しをんさんが世界や他人のことをどんな風に捉えているかも見えてくるから面白い。そういうものを感じると、やはり読書というのは受け身な行為ではないんだなって思う。

「信じる」ということについてしをんさんが考えた章が特に印象に残った。しをんさんは「信じる」ということの明暗について考えるために、二冊の本を挙げている。

一冊は、『私にとってオウムとは何だったのか』 早川起代秀、川村邦光 (ポプラ社

私にとってオウムとは何だったのか
私にとってオウムとは何だったのか
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読みたいと思いながらまだ読めていない本だ。麻原彰晃を「尊師」と崇め、信仰を理由に人を殺すに至った自分の心の動きを早川本人が克明に記したものだそうだ。宗教学者川村邦光の分析と論考も載っている。この本を読んだしをんさんは「人間にとって美しい心の動きであるはずの『信じる』が、残酷さと独善性を生む危険性を秘めたものでもあるという、不幸にしてつらい真実について、忘れずに考えつづけていきたいと思った」と言っている。

そして「信じる」という行為の影の部分を避けるための鍵になり得るのではないかと、もう一冊の本を挙げる。それが、『さらば勘九郎』 小松成美 (幻冬舎)だ。

さらば勘九郎―十八代目中村勘三郎襲名
さらば勘九郎―十八代目中村勘三郎襲名
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私は歌舞伎に全く興味がないのだけど、この本はしをんさんの紹介を読んで是非とも読んでみようと思った。これは歌舞伎役者中村勘九郎(のちに勘三郎)に密着したルポで、「勘九郎は熱意と努力と信念のひと、自分の信じる道を着実に進む魅力的な人物だ」と紹介されている。彼に密着したルポが「信じる」ということの暗い部分を遠ざける鍵になるとはどういう意味なんだろうか。しをんさんは次のように説明する。「勘九郎は自らを閉ざすことをしない。いつでも表現し、自分以外のひとに身体や言葉で伝えようとしている。周囲のひとと結びついていたいと願い、それを実践している。そこにこそ希望があるのだと、私はいま思っている」

どんなに理想的で美しく見える考えでも、それが自分とは異なる他者を無視するところから出てきているものだったら、簡単に残酷で独善的なものに変わってしまう。自分以外の人間に関心を持ち続けること、自分以外の人間と結びつくために言葉を誠実に扱うこと、そこにこそ事態の悪化を踏みとどまらせる力が潜んでいるのではないかと私も思う。この二冊は近いうちにゆっくり読んでみよう。

【本】村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹河合隼雄に会いにいく』 河合隼雄村上春樹 (新潮文庫

村上春樹河合隼雄の対談。河合隼雄ユング派心理学の第一人者で心理療法家。二人とも自分の中から言葉を出してくる人だから話を聞いているのが楽しい。

私は心理学の知識がほとんどなくて箱庭療法がどういうものなのかもよくわからないのだけど、この方法はスイスで生み出されたにも関わらず日本人の治療において特に有効なんだそうだ。「欧米人と日本人の違い」というふうには一概に言ってしまえないものだとも思うのだけど「箱庭療法が有効な人とそうでない人がいる」ということには説得力があった。

私は何か精神的に大きなダメージを受けるようなできごとがあると、言葉に頼ることが多い。だから私以外の人も言語化することで自分の問題を整理して解決させているのだと思っていた。だけど河合さんの話を聞いて言語化することが必ずしも誰かが立ち直るうえで有効な方法ではないのだということに思い至った。問題を顕在化させずに曖昧なままやり過ごすことで精神的な危機を乗り越える人もいるそうだ。患者さんの抱えている問題を言葉でどんどん分析させるより、「箱庭でも作ってみましょうか?」と緩やかに入っていく方がいい時もある。言われてみればその通りで「正面切って向かい合う」という戦い方が合わない人もたくさんいるだろう。

河合さんによると、日本では何か問題が起こった時に家族間でブツブツと文句を言い合ったりちょっとした喧嘩になるところで止まって、誰かが激しい症状を出すということにならずに済むことが多いそうだ。河合さんは初めこれをプラスに受け取っていたそうなのだが、よく考えるとこの現象にはマイナス面もあると言う。「身体症状を引き起こさない」という点ではプラスだけれど「問題を自分ひとりで引き受ける力が弱い」という点ではマイナスだからだ。

たとえば自然災害が起こった時、それを「自分の問題としてどう引き受けるか」というところに至らず、集団に降りかかった問題として片付けてしまう。衝撃を「個人」で受け止めずに「全体」で受け止める。「個人」であることが当たり前のように要求されるアメリカとそうではない日本とでは震災後のPTSDの出かたが随分違ったそうだ。アメリカのノースリッジ地震の時と比べて、神戸の地震の時のPTSDの発生件数はずっと少なかったという。

河合さんのところへ訪れる患者さんの中にも「その人を見ているだけではあまり苦しそうに見えないのだけど周りの人がなんとなく苦労をしている」というケースがよくあるらしい。自分の受けた傷を自分で処理することができずにみんなに分かち与えてしまう。それで「お前がもう少ししっかりしてくれたら」とお互いに言い合ってしまう。責任がみんなにあるという発想だから「私の不幸を何とかしてちょうだい」という格好になって「結局自分で乗り越えるしかない」というところにたどり着きにくい。「問題を解決すること」や「治ること」を目的とするのではなく、「問題を抱えたままでも何とか生き延びていくこと」を目的とするなら、私はこのタイプの人たちはそのままでいてもいいような気がする。人によって許容量が違うということを認めないわけにはいかないし。

ただ、この本を読んで「身体症状が出てしまうこと」が必ずしも悪いことではないということにも気付いた。私は「嫌なことを我慢して体を壊しちゃうぐらいなら、逃げたり放り出したりしていいと思うよ」とよく言っていたのだけど、体を壊してでもグッと引き受けた方がいい時もあるようだ。自分の受けた傷を自分で処理しようとして失敗して症状が出てしまっても、それを乗り越えて強くなっていく人がいる。そう聞くと「体を壊すぐらいなら逃げた方がいい」とも言い切れない。危機を乗り越える方法も人それぞれで、誰にでも通用する方法というのはないんだなっていう当たり前のことが意外に分かっていなかった。

本を通して専門家の話を聞かせてもらうと、自分とは違うタイプの人のことを知識として頭で理解することができる。そういう機会がないと、ろくに検討しないまま自分にとって役に立つことが他の人にとっても役に立つだろうと思い込んでしまう。心理学や社会学の本を読むことは自分のことを客観的に見るためにも必要なことなのかもしれない。

この本で話題になっていることは《人が自分を支えていくために何を必要とするか》という誰にとっても避けることのできない問題なのでとても読み応えのある内容なんだけど、それが簡単な言葉で気楽に読めちゃう感じで書かれていることに驚いた。村上さんはまえがきに「ビールを飲んだり食事をしながら、頭に浮かんだことをそのまま語り合った」と書いている。本当にそういう感じで会話が自然に流れていくので、大事な話をうっかり聞き逃してしまいそうだった。短時間で読める本なのだけど、読んでいる間中「気が抜けないぞ」と思っていた。

ガイアシンフォニー』という映画の話が面白かった。「自分はイルカになる」と言って100メートルも素潜りで潜ってしまうジャック・マイヨールと、「自分は山になる」と言って8000メートル級の山に酸素ボンベなしで登るラインホルト・メスナーが登場する。言っていることはどっちも一緒なのに、一人は海にしか興味がないし一人は山にしか興味がない。他人には全く理解できなくてもその人にとっては生きる上でどうしても必要なものがある。何をするかは人によって違うけど、その人にとってものすごく大事なことを生きねばならない。そこを生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくると河合さんは言う。

村上さんにとって小説を書くことはお金を稼ぐための手段というだけではなくて、自分を治癒する行為でもあるそうだ。そういう意味ではジャック・マイヨールやラインホルト・メスナーと同じく自分も小説家になるしかなかったと村上さんは言う。村上さんは自分が欠落部分を抱えているということに意識的で、その欠落を埋めようとする行為が自分にとって小説を書くことだったと説明する。欠落部分があること自体は人間にとってネガティブなものではないから欠落部分のない人間を目指す必要はないのだけれど、欠落部分がある以上それを埋めたいという欲求もあって、その欲求が作品を作り出す原動力になると村上さんは言っていた。

そういう個人的な作業がどこかで他の人にも通じるものになって、作品を作り出す人だけでなくそれを受け取る人にとっても《自分を支えるうえで必要なもの》になっていく。そういう物語の力に私は魅力を感じる。(本だけでなく映画や音楽にもそういう要素があると思う)

私にとって読書は、誰かと価値観が同じであることを確認したり自分のあり方を肯定してもらうためにすることではない。自分の価値観やあり方をよしとするのはあくまで自分一人の力ですることだ。そのうえで、全然違うように見える自分以外の人たちと深いところで通じ合っていると感じる瞬間があると心強い。私はベタっと団結して価値観を同じくすることを求め合う関係より、「個」であることに責任を持ちながら自分以外の人とも連帯していくような人間関係に魅力を感じる。

【映画】キートンの探偵学入門

キートンの探偵学入門』 1924年 アメリ

バスター・キートンのコメディ映画。サイレントなのでセリフではなく動きで笑わせる感じ。キートンがにこりともしない真面目な顔をしているのがいい。

バナナの皮で滑ったり、ポケットから4ドルの質札が出てきて時計泥棒の疑いをかけられたり、期待通りの展開で話が進んでいくところが嬉しい。

誤解がもとで彼女との関係がギクシャクして、最終的には誤解が解けるというストーリーも、単純なんだけどすごく好き。

この作品ではキートンが探偵と映写技師の二つの肩書を持つ男を演じる。探偵といっても怪しいマニュアル本に従って素人丸出しの捜査をするだけなんだけど、そこがまた愉快でいい。「容疑者に密着せよ」という鉄則に従って、恋のライバルでもあり時計泥棒の真犯人でもある男に影のようにくっついて歩くところが私のツボだった。尾行してるのバレバレだよ!

その直後の汽車の上を走るシーンも好き。キートンは体を張ったアクションを見せてくれるので、いつもワクワクしながら見守ってしまう。

映写技師のキートンが映画の上映中に居眠りをする。その隙に抜け出したキートンの魂が観客席の後ろからスクリーンに近づいていって、スクリーンの中に入ってしまう。上映していた映画は真珠が盗まれる話なのだけど、いつの間にかその映画の登場人物が自分の好きな女性とその父親とライバルの男に変わってしまっている。

女性とライバルの男が接近するのを見かねてキートンはスクリーンに飛び込んでしまったのだけど、映画に登場したキートンは世界一の探偵シャーロックJrとして活躍する。容疑者たちから命を狙われるキートンがギリギリのところで身をかわすのが爽快!

シャーロックJrの助手も登場して、助手との名コンビぶりを見せてくれるところも嬉しい。壁を抜けるシーンやバイクのハンドルに座って疾走するシーンが大好き。後ろを向いた時に運転席にいるはずの助手が消えているところがツボだった。私は何かに夢中になって猛進している人がいつの間にやら一人になってて「あれ?誰もついてきてない…」って状態になってしまう瞬間が好き。だから「このシーン、いいなぁ」と思ってしまった。

バイクで爆走するキートンが間一髪のところで機関車をよけるのが最高だった!

その直後彼女が閉じ込められている部屋にバイクで突っ込んじゃうシーンも、その瞬間に音楽が切り替わるのが印象的ですごくよかった。全体を通して音楽が切り替わるタイミングの絶妙さに感動させられっぱなしだった。

やっぱりキートンすごいな。

借りたDVDには活弁をつけたバージョンも収録されていたので、そっちの方でも観てみた。邪魔になるかなぁと思ったのだけど、こっちもすごくいい。面白かった。弁士さんのつく映画を生で観てみたいな。

監督:バスター・キートン

【映画】キートン将軍

キートン将軍』 1926年 アメリ

バスター・キートンのコメディ。『キートンの大列車追跡』とも呼ばれる。

機関車を使ったアクションが最高!

舞台は1861年のアメリカ。結婚の申込に行ったキートンの前でその女性の兄が南北戦争に志願するという。プロポーズは先延ばしにして自分も入隊の申込をするために事務所に行くのだけど、なぜか入隊させてもらえない。キートンは機関手で、その職業がこれから必要とされるため入隊させてもらえなかったのだけど、本人はそれを知らない。彼女からも彼女の家族からも「志願したのに受け入れてもらえなかった」ということを信じてもらえず、彼は「南部の恥だ」と言われてしまう。

キートンにとって機関車「将軍号」は親友。彼はションボリしている時に列車の車輪部分の軸に腰をかける。そういうところがすごくいいなって思った。がっかりしているキートンが列車に腰掛けたまま車庫に入っていっちゃうシーンが一番好き。

キートンは他の男性陣と違って戦争に対して血が騒ぐような感覚を持ったりしないのだけど、それでも「志願しない男、戦争で活躍しない男は一人前ではない」という価値観は共有している。だから自分も何とか戦いに加わろうとするのだけど、どうしてもとんちんかんな感じになって一人だけ浮いてしまう。そんなキートンを見ているのが愉快でよかった。

キートンが唯一本気を出すのは北軍に「将軍号」を奪われてしまった時。彼は「将軍号」を取り戻すため「テキサス号」に乗って北軍の兵士たちを追いかける。もちろん一人で行くのではなくちゃんと応援を頼んで出発するのだが、連結器が外れていたようで後ろを振り返ると誰もいない。幸運なのはキートン一人しか乗っていないということに敵が気付いていないこと。そのため敵は直接戦闘をしかけてくるのではなく「テキサス号」を近づかせないための妨害行為をしかけてくる。キートンが線路に横たわる木材に上から木材をぶつけて弾き飛ばしてしまうシーンに感心してしまった。こういう計算されつくしたアクションが次々出てくるところがこの映画の魅力だ。

南軍が退却する中、キートンが一人で北軍の陣地に突っ込んでいくところが私のツボだった。戦況とか全然見えてなくて、薪をくべることに一心不乱になっているキートンがすごくいい。北軍ともすれ違うのだけど、なぜか素通りされてしまう。キートンは一応身を隠すのだけど、そのタイミングがすごく遅くて「今ごろ??」と思ってしまった。ここも笑えた。

敵に上から覗かれる格好になって、列車に一人しか乗っていないということに気付かれてしまったキートンは大ピンチ。森に隠れるのだけど、お腹がすいてお屋敷に忍び込んだ。食べ物を確保してテーブルの下に隠れたキートンがくしゃみをこらえる様子がおかしかった。

列車を取り戻すことしか頭になかったのに、期せずしてスパイみたいな役割を果たすことになってしまうキートン。奇襲攻撃の情報を入手してしまい、それを南部に伝えなければならなくなってしまうのだ。このお屋敷で列車が盗まれた時に一緒に連れ去られてしまっていた彼女を偶然見つける。スパイ作戦に加え彼女を救出するというミッションが加わった。

キートンが彼女を救出したあと、二人は力を合わせて「将軍号」を取り戻す。キートンにとって列車は相棒だったのだけど、彼女とのコンビもそれに劣らぬぐらい息が合っていて見ていて楽しかった。

彼女のことも大事なんだろうけど、それと同じぐらいかそれ以上に機関車が好きなんだろうなって思えるキートンのキャラクターが魅力的だった。

監督:バスター・キートン

    クライド・ブラックマン