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【本】翻訳夜話

『翻訳夜話』 村上春樹 柴田元幸 (文春新書)

柴田元幸の翻訳教室に村上春樹がゲストで登場。二人が翻訳について語ったり、学生からの質問に答えたりする。その内容をまとめたものがこの本。さらにオースターの『オーギー・レンのクリスマスストーリー』とカーヴァーの『収集』を村上訳・柴田訳で比べてみたり、翻訳を仕事にしている人たちと座談会をやったりもする。充実の内容!

翻訳の技術的な方法を解説するのではなく「翻訳とはどういう作業なのか?」という本質に迫る内容なので、翻訳に縁のない私が読んでもとても面白かった。

翻訳に必要なのは語学力だと思っていたのだけど、村上春樹によるとそれはあまり重要ではないらしい。語学力はもちろん必要だけど、それ以上に大切なものとして「作品に対する愛情」が挙げられていた。

「テキストと自分との間に親密で個人的なトンネルのようなものができていれば、技術的な困難を乗り越えるのはそう難しくない。文章の骨の髄を自分が掴んでいるという確信があれば、今すぐ上手く訳せなくても大した問題じゃない。でもその確信がなければ、どんなに語学力や文章力があっても、どんなに努力しても、ほとんどどこにもいかないんじゃないかな」と村上春樹は言う。

村上春樹は趣味というか生活の一部として翻訳を始めたそうだ。英語の文章を読んでその文章の素晴らしさに感動して、「この素晴らしさに自分も参加したい」と思って、英語を日本語に置き換える作業を始めたらしい。自分が創作主体ではなくあくまでも一読者でしかないところで、それでもその作品に関わるものとして主体的に作品の素晴らしさに参加したいという気持ちは、私にもよくわかる。

村上春樹は小説家として創作主体でもあるわけなんだけど、そんな村上春樹の小説に対する考え方が興味深かった。小説ができあがってしまえばもうそれは作者からも独立したもので、その小説について「どの読み方が正しいか?」という問いには作者さえも答えを出すことができない。村上春樹のこういう考え方が私は好きだ。

自分の読み方には自分がどういう人間かが自然と出てしまうものだから、それを世間に受け入れられやすいように改変するわけにもいかないんだけど、かといって自分の読み方を絶対的に正しいものとして打ち出すのもちょっと違うような気がする。自分の読み方には徹底的にこだわるけれど、自分とは違った読み方をする他者の存在を無視してしまいたくはない。

「自分の読み方も含めてどの読み方も同じだけの値打ちがあるものとして扱う」という村上春樹の態度は翻訳をする時にもよく表れている。柴田元幸村上春樹で同じ作品を訳してみるという試みが非常に面白かった。

ポール・オースターの『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』。「オースターといえば柴田さん」なんだけど、私は村上春樹訳の方が好きだった。どうしても譲れない一文があったのだ。

「信じる相手が一人でもいるかぎり、どんな話だって真実になる」(村上春樹訳)

これが柴田元幸の訳だと「誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ」となっている。

「言っていることは同じなのに、どうしてもここが引っかかってしまうのはなぜなんだろう?」って思いながら、二人がお互いの訳を自分のものと比べて意見交換しあう部分を読んでいった。

『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』のラストについて、柴田さんが自分と村上春樹の違いについて説明してくれているのだけど、その部分が興味深かった。柴田さんは《「私」のオーギー・レンに対する疑いの気持ち》と《「オーギーの話した物語自体は事実であろうとなかろうと真実だ」という逆説》を相反するものとして強調したかったそうだ。そう考えると「本当でない物語などありはしない」という表現になるのもわかる気がする。

村上春樹の訳は「私も一人の人間であり、オーギー・レンも一人の人間である」という立場に立っているのではないかと柴田さんは言う。確かにそういう立場に立つと、この一文は肯定的にポンと言い切ってしまいたくなるような気がする。「どんな話だって真実になる」という訳を私がたまたま気に入ったのも、おそらくこの点において村上さんと同じ立場に立っているからだろうと思う。読み方や翻訳の仕方には人格が表れてしまうものなんだなって改めて思った。

柴田さんが読み方について語っている部分を読んで「字が読めれば本が読める」というものでもないんだなって思った。「原作をちゃんと理解できさえすれば、それを別の言語で置き換えられないはずがない」と翻訳をする人はよく言っている。村上春樹も、柴田元幸も、以前読んだ『翻訳の秘密』の小川高義も言っていた。だから《本をちゃんと読めるようになること》が翻訳をするにあたって一番大事なことなのかもしれない。私は翻訳をする予定はないけれど、本をちゃんと読めるようにはなりたいので、柴田さんの言う次の部分は心に留めておこうと思う。

「よく読めるようになるというのは、お腹のあたりにもともと潜在しているその人のバイアスが、そのまま言葉として出てくるようになるということなんですよね。余計な紋切り型や正解に回収されてしまわずに。それまでは、客観的にはいちおう正しいといえそうな、でも人を退屈させるようなことを言ったり書いたりしていた人が、だんだん自分の『偏見』を出していくというのが、僕から見た『よく読めるようになる』ということです」(p.195)

《本をちゃんと読めるようになること》が小手先のテクニックで実現することではないのがよくわかる。自分の中にある「バイアス」とか「偏見」というものが本を読むうえでは必要なようだ。

直接的な自己表現の形を取らずに自分の偏見を出す方法を村上さんは面白い表現で説明する。

「カキフライについて書きなさい」

カキフライというのは《自分の好きなもの》のことだそうだ。自分のことを書くんじゃなくて自分の好きなもののことを書く。自分とカキフライの間の距離を書くことによって自分を表現する。そうすれば自然に自分を相対化する視点を持ち込むことができるから、説得力のある文章が書けるそうだ。この部分を読んで「なるほど」と思った。文章を書こうと思ったら、自分と上手く距離を取ることがどうしても必要になってくる。「カキフライについて書け」というアドバイスは具体的でいいなと思った。ただ、私はカキフライが好きじゃないので、「なんで、カキフライ?」って思ってしまったのだけど。