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【本】三四郎はそれから門を出た

三四郎はそれから門を出た』 三浦しをん (ポプラ文庫)

書評には人柄が出るものだなって改めて思った。作家さんのブックガイドの中には面白いものが多いような気がする。作り手でありながら読み手としての矜持も持っていて、自分の作品の読者に対しては寛容な態度を取る。そういう作家さんを見ていると、かっこいいなって思う。三浦しをんの小説はサラッと読めるようでいて深みがあるので大好き。エッセイはいつも大笑いしながら読んでしまう。そして小説やエッセイを読んだ時以上に私が三浦しをんの魅力を感じたのがこの本。

「私にとっちゃあ、読書はもはや『趣味』なんて次元で語れるもんじゃあないんだ。持てる時間と金の大半を注ぎこんで挑む、『おまえ(本)と俺との愛の真剣一本勝負』なんだよ!」と叫ぶ三浦しをんの書く読書エッセイが面白くないわけがない。

この本を読んで、読みたい本がまたまた増えてしまった。三浦しをんのスゴイところはふざけた話と真面目な話を地続きでできるところ。バカバカしいものに対してもシリアスなものに対しても、同じように真剣に接しているんだろうなって思う。そういう人の書く文章を読んでいると何だか心強い気分になってくる。こんな短い文章でこれだけ多くのことを伝えることができるものかと、何度も驚かされた。ストレートな表現も力強くて心地いい。

私が読みたくなった本をいくつか紹介してみる。

『ドスコイ警備保障』 室積光 (小学館文庫)

ドスコイ警備保障 (小学館文庫)
ドスコイ警備保障 (小学館文庫)
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引退したお相撲さんたちで作った警備会社を舞台にした小説。誰でもずっと勝ち続けられるわけじゃないし、挫折してしまってもそこで人生が終わるわけではない。お相撲さんたちの第二の人生を描いた小説に、しをんさんの付けた解説がすごくいい。

「周囲の用意した階段を上るためではなく、自分自身の価値観に基づいて努力するのなら、たとえ失敗に終わったとしても、努力もあながち無益なことではない。そう信じられる気がしてくる」

しをんさんは自分の書評を「本に対する愛情がほとばしりすぎて暑苦しいかもしれない」と言うが、暑苦しいのは本に対する愛情のためだけではないような気がする。多分、仕事に対する態度も含め生き方自体が相当暑苦しいんだろうと思う。私はこういう暑苦しい人が好きだ。

『図書館の神様』 瀬尾まいこ (ちくま文庫

図書館の神様 (ちくま文庫)
図書館の神様 (ちくま文庫)
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この小説は私も大好きな本で「本が好きな人ならみんな共感できるんじゃないかな」と思ったのだけど、しをんさんは「読書が苦手な人もきっと共感できる作品だ」と言う。本が好きでもないのに文芸部の顧問になってしまった新米国語教師と本ばかり読んでいる男子高校生の交流を描いたもので、図書室や本の魅力がよく表れている作品だと思う。しをんさんが簡潔な言葉でこの作品の舞台である図書室の魅力を表現してしまう部分に感動した。

「読書が、悩める人を救うのではない。静かに本を読み、自分を見つめた者自身が、自分を救うしかないのだ。ちょっと立ち止まって、一息つくための場所」

直球勝負が見事に成功を収めている。潔い文章だ。

しをんさんの書評を読んでいると本の魅力もよく伝わってくるけれど、しをんさんが世界や他人のことをどんな風に捉えているかも見えてくるから面白い。そういうものを感じると、やはり読書というのは受け身な行為ではないんだなって思う。

「信じる」ということについてしをんさんが考えた章が特に印象に残った。しをんさんは「信じる」ということの明暗について考えるために、二冊の本を挙げている。

一冊は、『私にとってオウムとは何だったのか』 早川起代秀、川村邦光 (ポプラ社

私にとってオウムとは何だったのか
私にとってオウムとは何だったのか
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読みたいと思いながらまだ読めていない本だ。麻原彰晃を「尊師」と崇め、信仰を理由に人を殺すに至った自分の心の動きを早川本人が克明に記したものだそうだ。宗教学者川村邦光の分析と論考も載っている。この本を読んだしをんさんは「人間にとって美しい心の動きであるはずの『信じる』が、残酷さと独善性を生む危険性を秘めたものでもあるという、不幸にしてつらい真実について、忘れずに考えつづけていきたいと思った」と言っている。

そして「信じる」という行為の影の部分を避けるための鍵になり得るのではないかと、もう一冊の本を挙げる。それが、『さらば勘九郎』 小松成美 (幻冬舎)だ。

さらば勘九郎―十八代目中村勘三郎襲名
さらば勘九郎―十八代目中村勘三郎襲名
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私は歌舞伎に全く興味がないのだけど、この本はしをんさんの紹介を読んで是非とも読んでみようと思った。これは歌舞伎役者中村勘九郎(のちに勘三郎)に密着したルポで、「勘九郎は熱意と努力と信念のひと、自分の信じる道を着実に進む魅力的な人物だ」と紹介されている。彼に密着したルポが「信じる」ということの暗い部分を遠ざける鍵になるとはどういう意味なんだろうか。しをんさんは次のように説明する。「勘九郎は自らを閉ざすことをしない。いつでも表現し、自分以外のひとに身体や言葉で伝えようとしている。周囲のひとと結びついていたいと願い、それを実践している。そこにこそ希望があるのだと、私はいま思っている」

どんなに理想的で美しく見える考えでも、それが自分とは異なる他者を無視するところから出てきているものだったら、簡単に残酷で独善的なものに変わってしまう。自分以外の人間に関心を持ち続けること、自分以外の人間と結びつくために言葉を誠実に扱うこと、そこにこそ事態の悪化を踏みとどまらせる力が潜んでいるのではないかと私も思う。この二冊は近いうちにゆっくり読んでみよう。