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【本】ビギナーズ

『ビギナーズ』 レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 翻訳ライブラリー(中央公論新社

この本のあとがきには、カーヴァーが編集者ゴードン・リッシュに宛てた手紙が収められている。「僕はこの話から降りなくてはならない」という書き出しで始まるこの手紙は、カーヴァーがリッシュにカーヴァーの作品の出版を取りやめてくれるように頼む内容のものだ。

カーヴァーの作品はリッシュによる手直しを受けて出版されることになっていた。出版前にチェックしたその作品の内容にカーヴァーは驚かされる。『愛について語るときに我々の語ること』というタイトルで出版される予定の短編集は、もとの原稿がバッサリ削られていて、それぞれの短編のタイトルも付け替えられていた。

「手直し」とはとても言えないレベルの変更にカーヴァーは戸惑い、慌てて出版の中止を申し出た。自分の原稿をズタズタにされ、もはや自分の原稿だとも言えない状態になっているのに、それでもなおカーヴァーがリッシュに対して低姿勢なのは、カーヴァーとリッシュの間の力関係のせいだ。カーヴァーは今の自分があるのはリッシュのおかげで、とても返せないほどの借りがあると、手紙の中に書いている。

アルコール依存症から立ち直り、何とか作家としての自分を安定した状態に持っていこうと格闘しているカーヴァーにとって、彼の価値観そのものである作品がどういう形で発表されるかはとても重大な問題だ。リッシュの直しによって作品が素晴らしいものになり、結果的にそれがカーヴァーの名声を高めることになったとしても、彼が彼の作品に納得できなかったとしたら、それは彼にとって致命的なことだ。手紙を読んでいると「このまま話が進んでしまえばものを書くことがもう二度とできなくなるかもしれない」というカーヴァーの切実な思いが痛いほど伝わってくる。

カーヴァーの懇願にも関わらず『愛について語るときに我々の語ること』は出版されてしまった。

その『愛について語るときに我々の語ること』をオリジナル原稿の形で復元したものが『ビギナーズ』というタイトルのこの短編集。リッシュによって大幅に削られたバージョンと違って、厚さも2倍ぐらいになっていると、訳者の村上春樹が書いている。訳者あとがきで村上春樹がカーヴァーとリッシュの関係についてわかりやすく説明してくれているので助かった。

リッシュが我慢ならなかったと言うカーヴァーの「めそめそしたセンチメンタリズム」は村上春樹によると『ビギナーズ』のオリジナル原稿にも見受けられる要素だそうだ。ただ村上春樹はそれを負の要素としてではなく、のちの『大聖堂』や『使い走り』という傑作を生む原動力として捉えている。カーヴァーの「めそめそしたセンチメンタリズム」は彼が人間として成熟していくにつれて「高度な精神性」や「深い共感性」に高められていったと村上春樹は説明する。

『ビギナーズ』を読んでいると、カーヴァーが優しくて温かい眼差しを持った人だというのがよくわかる。確かに冗長な印象も受けるけれど、この速度がこれを書いた時期のカーヴァにはぴったりだったのだろう。

私はまだリッシュの手直しを受けて出版された『愛について語るときに我々の語ること』も、それよりあとに出版された『大聖堂』なども読んでいないので、これから順番に読んでいきたいと思う。一年、二年の時間をかけて少しずつ作品を書き溜めながら価値観のようなものを身につけたいと、リッシュに宛てた手紙の中で書いているカーヴァー。彼が人としてどんな風に自分を作っていったのか、彼の作品から少しでも感じ取れれば嬉しい。

『ビギナーズ』には17の短編が入っているのだけど、私が特に好きだったのは「ささやかだけれど、役にたつこと」「隔たり」「ダンスしないか?」の三つ。

「ささやかだけれど、役にたつこと」には、事故で息子を失った両親が焼きたてのパンを食べるシーンがあるのだけど、そのシーンが特に好き。パン屋の一言がいい。「こんなときには、ものを食べることです。ささやかなことですが、助けになります」

「隔たり」では、若い夫婦が朝食中にベーコンエッグを服に落として大笑いするシーンが一番よかった。「二人は体を寄せ合って、涙がにじむほど大笑いした。そのあいだ、凍りつくものはすべて外側にあった」この部分がすごくいい。これを読んだ時に「カーヴァー、好きだなぁ」って思った。

「ダンスしないか?」にはガレージセールに訪れた男女がガレージの持ち主の勧めでダンスを踊るシーンがでてくる。私はそのシーンがすごく好き。ガレージの持ち主である男性はおそらく自分の家族を失ったところなのだろう。若い二人にお酒を勧め、安い値段で家具を譲り、ガレージに置いたままのベッドで眠ってしまった二人に毛布をかける。その話をのちに友だちに聞かせる女の子がその日のできごとを語りながら、そこに語りえないものがあることに気付く。彼女が語りえないものを語ることを諦める瞬間がいいなって思った。大切なんだけど言葉にするのが難しい何かを、掬い上げてしまう力が物語にはある。