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ツイッター @hyokofuji ミサ

【本】ディアスポラ

ディアスポラ』 勝谷誠彦 文藝春秋 

勝谷さん本人が自信作と言っていた作品だけど、十年前に雑誌に掲載されたきり本の形で出版されなかった作品なので、今まで読めずにいた。今月初めに文藝春秋から出版されて、早速買って読んでみた。 

原発事故で居住不能になった日本列島から脱出した日本人たちが世界中に散らばって難民キャンプで生き抜いていくという内容。この内容だから十年越しで出版の話が出たのだろう。十年前、この作品が書かれた頃には現実に原発事故で避難を余儀なくされる人たちが出るとは作者も予想していなかったに違いない。 

ただ、チベットのキャンプで使いようのない携帯電話を首からぶらさげた女子高生が「この携帯電話が使えなくなる日がいつか来るんじゃないかと思っていた」というシーンや原発事故の第一報が入った時に主人公と一緒にいた女性が「バケツでウランだって」と笑い出すシーンを見ていると、「事故」の前から自分たちが暮らす国のありようが安心して自分の安全を任せられるようなものではなかったということが浮かび上がってきて、それは十年前にも感じられていたことなのかもしれないと思った。 

主人公は国連職員の諏訪という男。諏訪が「組織」から依頼されている仕事は「世界中に散らばった日本人たちが再びどこかの土地を得て集まるとしたら、何が求心力になり得るか」を調べるというもの。冷静な観察者の視点でキャンプにいる日本人たちの日本人としてのアイデンティティについて語るのではなく、諏訪本人も日本人の一人として複雑な思いを抱えながら、自分たちの拠り所となるものについて真剣に考えていくところがよかった。 

日本人が日本人であるという理由で迫害される時にそれでも日本人としての誇りを持ち続けることができるとすれば、その気持ちを愛国心と呼ぶことができるのだろうけれど、「事故」に至るまでの経緯やその対応を通して日本という国に失望させられた人々にとって、その思いを持ち続けることは難しい。諏訪が日本語を目にする時に郷愁だけでなく憎悪に近い感情をもつところや日本列島のことを「あの弧状列島」と呼ぶところに、日本人であることを誇るどころか日本人であることを恥じるしかない複雑な思いが表わされている。 

私は自分の「核」として「日本人であること」を考えたことはなかった。民族として団結することより個として立つことに関心があったし、「自分が何を感じ、何を考えるか」が社会的地位や他人からの評価を超えたところで自分の「核」になってくれるものだろうと思っていた。ただ、自分が何を感じ何を考えるかということには自分が日本人であることが深く関わっているように思う。作中のチベットの風景は日本の風景とは全く違うものだ。気候や気圧、酸素の薄さ、雲の近さ、風、食べ物だって日本にいたころ触れていたものとは全く違う。そういう日本とは全く違う環境に放り込まれてしまったら、日本にいたころを懐かしく思ったり自分が日本人であることを強く意識するだろうと思う。キャンプの日本人たちがチベットの人たちが食べる物と同じものだけでは満足できずにできるだけ祖国の食べ物に近いものを購おうとするところや、お盆の法事をやろうとする時の思いは痛いぐらいにわかった。その一点をとっても、私は「自分が日本人であることにはそうこだわっていない」とは言えないな、と思った。 

国土を失い、日本政府が存在するのかどうかもわからない状況で、それでも日本人でい続けられるのかという問いに、簡単に答えることはできないけれど、諏訪が深く関わってきたチベットの日本人キャンプの人々は一つの方向へ向かって進みだす。その答えが正解なのかどうかわからないし、進み始めた人々から置いてきぼりをくらってしまう諏訪のような人々も出てくるだろう。私は日本的なものに親和性を覚え異国の風景に溶け込む自信がないくせに、日本人であることの根拠として確固たる何かを持っているわけでもないということを思い知らされながら、読んだ。 

私は民族なんて考え方は幻想だと思っていたし、自分が少数派であれ多数派であれ、自分が仲間だとみる人たちと同じ円の中に入って、そうでない別の誰かを円からはじき出してしまうような態度は大嫌いだった。でも、この作品を読んでいて、自分が思うほど自分が根無し草だったわけでもないと感じたので、自分にとって自分が日本人であるということはどういうことなのかを真剣に考えてみようと思った。 

日本人のアイデンティティがテーマの作品だけど、一番印象に残ったのは次の部分。 

東海村で起きた臨界事故で、科学技術庁は…」 
バケツでウランだって。 
そこで彼女が笑ったことを、私は今でも咎め立てはしないだろう。不謹慎といえばそのとおりなのだが、事故の悲惨さを突き抜けたばかばかしさがあったからだ。そのばかばかしさについて、ばかばかしいと言い放たずに私たちはなぜばかばかしいのか考えるべきだったのだ。(p.21) 

作中の「事故」を「ばかばかしい事故」と言い放てないのと同じように、現実に私たちの身に降りかかった地震津波原発事故という非常事態も「天罰」だの「国難」だのといった一言で括ってしまえないものなのではないかと思う。単純化して手に負えやすい形で語ってしまう時に取りこぼしてしまう多くのもののことを考えると、複雑なものを複雑なまま丁寧に扱う真摯さを手放すわけにはいかないなと思った。