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呉春

美の巨人たち』で、呉春(松村月渓)という画家が紹介されていた。 


彼は、江戸中期に隆盛を極めた、与謝蕪村円山応挙とゆかりのある人で、江戸後期に新たな境地を開いた四条派の祖として有名。 
四条派の作風は竹内栖鳳上村松園、土田麦僊、小野竹喬にも受け継がれたそうだ。 

呉春は初め、松村月渓という名で与謝蕪村に師事していた。 
与謝蕪村が描く文人画は、見たままを描くのではなく、心に響いた思いを描くもので、二十代の松村月渓もそこに惹かれていたようだ。 

彼は蕪村の愛弟子として修行を積んでいたのだが、そんな折、奥さんが海難事故で突然亡くなってしまう。 
月渓を心配した蕪村が彼を池田に呼び寄せ、この時、世話になった呉服(くれは)神社にちなんで、月渓は雅号を呉春に変えた。 
髪を剃り、奥さんの菩提を弔いながら、絵に打ち込んでいた呉春の身に、またも不幸が訪れる。 
慕っていた蕪村との別れだ。 

蕪村は、愛弟子に辞世の句を贈る。 

「しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり」 

【白梅が告げる夜明け】とは、【艱難辛苦に耐えた後の人生の春】を指すそうだ。 
奥さんとの別れを乗り越え、自分の技法を確立しようと奮闘する弟子に対する、「お前の春はそう遠くないぞ」という言葉が温かい。 

蕪村の死後、画家として自立しようと京都に出た呉春が目にしたのは、円山派の活躍。 
画家として名を成したかった呉春は円山応挙に弟子入りを志願するのだけれど、応挙に「莫逆の友としてやっていきましょう」と断られてしまう。 
応挙は呉春の実力を認めていたため、彼を弟子として迎えるのではなく、友人として接することを選んだ。 
この呉春の行動にたいして、蕪村の弟子たちからは非難の声もあったのだけど…。 

呉春が応挙とともに携わった、大乗寺の障壁画には、呉春が応挙の技法を吸収したことが見て取れる。 

師匠である蕪村の「目には見えぬ、心に響くものを描く技法」と、友である応挙の「見たままをリアルに描く技法」の、両方を手にした呉春が描いた、『白梅図屏風』は見ものだ。 

左側には、可憐な花をほころばせる白梅が描かれ、枝は空に向かって力強く伸びている。 
右側には、曲がりくねり、枝の節くれだった老木が描かれる。
その姿は、風雪を耐えた証しだ。 
花や枝の様子はリアルに写実的に描かれ、応挙の技法が生かされている。 

春の訪れを告げる梅をモチーフにしていながら、この絵が寒々しく感じられるのは、背景のせいだ。 
この絵の背景は地味な藍色で、絹を染めたものを張り合わせてあるため、色むらも目立つ。 
地味な色は夜明けの色を表わし、色むらは冷たさの残る空気がゆらいでいる様を表わす。 

澄み切った春の空気には冬の厳しさの名残りが感じられ、これから訪れる春と今まで耐え忍んできた冬が同時に描かれているところがすごい。 
番組を見ていて、これが蕪村の得意とした「心に響くものを描く」ということなのかと、感心してしまった。 

逸翁美術館という池田市にある美術館で、『白梅図屏風』が二年に一度の公開される。

蕪村との別れから『白梅図屏風』が描かれるまで、10年以上。 
そう遠くないと蕪村が励ました、呉春の夜明け。 
10年ってのは、やっぱり長いかなぁ。 
でも、その10年があったからこそ、あれだけの作品が残せたのだなぁと思う。