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【本】静子の日常

『静子の日常』 井上荒野 (中央公論新社) 

静子さんは、息子夫婦と高校生の孫娘と同居する、75歳のおばあちゃん。 
彼女は家族の心配をよそに、スイミングスクールに通い始めた。 
家の前からバスに乗ればフィットネスクラブの前まで連れて行ってくれるんだから「ドア・ツー・ドア」みたいなものでしょ
と、静子さんも言うとおり、バスという交通手段はお年寄りにとって、ずいぶん便利なものみたいだ。 

静子さんは、水が苦手だったのが嘘みたいに初級コースから中級コースに上達して、バタフライに挑戦するまでに。 
水泳に夢中になる静子さんだけど、呑気なように見える趣味の世界にも煩わしいことがたくさんあって…。 

フィットネスクラブのあちこちに、バカみたいな貼り紙が貼ってある。 

「洗面所はきれいに使いましょう」 
「髪をよく拭いてから通ってください」 
「会員の悪口、噂話はご遠慮ください」 

他人に決められた通りに行動するのが嫌いな静子さんが、この貼り紙に「ばか?」と毛筆で書いたふせんを貼り付けるのが痛快。 

人に命令されるのが嫌いな静子さんだけど、自分自身に対してはすごく忠実だ。 
50年連れ添って死に別れた旦那さんは、お酒の飲めない人だった。 
彼女は結婚した時に「夫の妻でいる間は、飲まない」と決めていた。 
それを「夫に対してではなく、自分に対しての忠誠だ」と言うところがかっこいい
夫の通夜で、今まで全く飲まなかったビールを一気に飲む母親を見て、息子はびっくりしたようだが、それは静子さんにとって、夫の妻であることをやめた瞬間だった。 

他にも、静子さんが心に決めたことがある。 
「息子夫婦の子育てにはいっさい口を挟まない」 

口を挟まないと決めたものの、孫の様子がおかしいとやっぱり心配だ。 
浮かない気持ちの静子さんが、散歩道で缶ビールを買って飲んじゃう場面がすごくいい。 
外でビールを飲むというのは、彼女にとって、ずっとやってみたいと思っていたものの、一度もしたことのないことだった。
「浮かないときには缶ビールよね」と自分に言い聞かせる静子さんがすごくかわいい

いつも怒っていて、だれかれ構わず文句をつける50代女性が近所にいるのだけど、彼女に対する静子さんの視線は、公平で温かい。 
もちろん、他人に八つ当たりをするのはよくないことだけど、「相手を選んでいないところは感心できるわ」と思う静子さんの気持ちはよくわかる。 
自分より立場の弱い人を選んでイライラをぶつけるのは最低だからなぁ。 

怒らなければならない理由が彼女の中にあるのだと推測する静子さんは、自分の中にもかつてそれがあったことを思い出す。
静子さんは自分の苛立ちと上手く折り合ったり、それを見ない振りをしてきたけど、怒鳴る女性に比べて、自分が正しかったというわけじゃないと思い至る。 
自分はあの女性に比べて、嘘つきだったなぁと。 

かつて感じていた苛立ちは亡くなった夫に対するもので、それは今でも時折彼女の心を揺らす。 
75歳になった彼女が自分の心の揺れを自分に対して隠すことなく、それに応じて素直に行動するところが面白い。 
そんな彼女の行動が、周りの人にいい影響を与えちゃったりもするんだから、《恨みの感情》も捨てたもんじゃないなぁと思う。

三十代か四十代の頃の、彼女の苦労が明かされる場面 
が切なかった。 
四十代になって糖尿病になった夫が、彼女の食餌療法にはしぶしぶ従うものの、外で恋人とスキヤキだのスペイン料理だのを好き放題に食べてくる。 
それで、体調がよくならないうっぷんを遠慮なく彼女にぶつけるのだから、たまったもんじゃない。 
病院通いに家事、お金の算段でくたくたになった彼女が、もう絶対に立ち上がれないという気分になったときに、香水をちょこっとつけて、お風呂に入る元気を出す。 
そのシーンに、《戦ってきた人》の凄みを感じて、だからこそ周りの人を冷静に温かく見守れるんだろうなぁと思った。 
特に、「男の人は浮気をするもので、女は耐えていればいい」という結論に落ち着かず、「自分と同じような思いを誰かがするのは嫌だ」と感じられるところが静子さんの強さだ。 

そんな静子さんの孫娘、るかちゃんも、いい女性に育ちそうだ。 
「暁を信じることに決めた。決めたことは貫く。あたしはそれを信条にするのだ」なんて言うところ、静子さんにそっくりだし…。 
彼氏の暁くんに向かって、「おばあちゃんが言ってたよ。手作りのお弁当とか、手編みのマフラーとかをありがたがる男は、小物だって」って言うところも最高だ。 
やっぱり静子さん、かっこいいな。 

新しい歌を知ったり、行ったことのないところへ行ったり、75歳になっても静子さんの世界はどんどん広がっていく。 
私は最近、「この歳になっても初めてのことがいっぱいだなぁ」と感じていたのだけど、静子さんを見ていると、私なんてまだまだだなぁと思う。