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【本】希望の国のエクソダス

希望の国エクソダス』 村上龍 (文春文庫) 


2002年、80万人の中学生による集団不登校が起こった。
中学生たちは学校へ行かなくなった理由を「学校はリスクの特定もしてくれないし、サバイバルするための手段も与えてくれないから」と説明する。 
起こる確率の低い危機に対しては、たとえそれが大惨事を引き起こすものであっても、無視してしまう。 
そういう態度を取る大人たちについていくのは危なくてしょうがない。 
そう考えた中学生たちはネットビジネスを開始し、日本の政界、経済界に影響力を与えるだけの力を持ち、全世界から注目されるようになる。 

中学生たちに対する大人の反応は二つに分かれる。 
「困ったやつらだ」という反応と「すごい子どもたちだ」という反応。 
反対のように見えて、どっちも対して変わらない。 
子ども扱いするのも無条件に賞賛するのも、【よくわからないものと遭遇した時には、わかったようなフリをして遠ざけてしまう】という怠けた態度の表れだ。 
思考することを放棄してしまうとどんなにもっともらしい言葉を口にしてもバカに見えてしまう。 

作中に登場する老人が「危機感だけが考える力を生む」と言うのだが、自分の身が危うくなるかもしれないという不安を抱えながら生きるのはとてつもなくエネルギーのいることで、危機感を持つのを避けると同時に考えることも放棄して生きる方がずっと楽なんだから、ついついそちらに流れてしまうのもよくわかる。 

中学生が「学校に通い続けて何の疑問も持たずに大人になることは致命的に危険なことだ」と表明したことで、主人公であるフリーの取材記者は、今までの自分について「状況を変えるアイデアを出すわけでもなく、批判と称して状況に愚痴をこぼすだけの甘えた記事を書いてきただけだった」ということに気づく。 
【わからないことはわからないと言える数少ない大人】として、この取材記者は中学生たちと関わっていく。 

中学生たちの考えや、取材記者の彼女の意見、その他の大人の発言など、至るところに村上龍の考えが表れていて面白い。 
エッセイで語られる村上龍の価値観がギュッと一冊に詰まったような小説で、言いたいこともわかりやすくてよかった。 

当たり前のことを言っているように思うのだけど、これを当たり前のこととして受け入れるのは、かなりのエネルギーを要する。 
【自分の技術と知識を武器にサバイバルしていく道】を選んだ中学生が、17歳になった頃、家族と中華料理屋に行く話をする。 
子どもの頃からずっと行ってる店で、食べる物もいつも決まっていて、父も母も妹もたいして話もしないで黙々と食べているのだけど、家に帰るといつも決まって、みんなでその中華料理屋に行くという話。 
それを聞いた取材記者の「無駄なことの繰り返しが人を安心させるということが、妙に悲しい」という発言が強く印象に残った。