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ツイッター @hyokofuji ミサ

【映画】小三治

十三の第七芸術劇場で6月26日(金)まで公開されていたドキュメンタリー映画、『小三冶』を観に行った。 
最終日に何とか観に行けたのだ! 

柳家小三冶を追いかけたドキュメンタリー映画なのだけど、すごくよかった! 

私が小三冶ファンになったのは、ごく最近だ。 
お正月のテレビでやってた『初天神』を見て「すごい!」と思って、大好きになってしまった。 めちゃくちゃ面白くて「なにこれ?これが落語?このおじいちゃん、だれ?」っていう衝撃だった。

それ以来CDや本を買っている。 

こんなに惹きつけられるのはどうしてだろうと思っていたのだけど、映画を観て何となくその理由がわかったような気がする。 

落語では演じる役柄が変わる時に、顔を向ける方向を変えてから喋る。 
そうやって、誰が喋っているのかをはっきりさせて、女の人だったら女の人っぽく子どもだったら子どもっぽくというように声色も変える。 

その演じわけについて、演芸場の支配人が小三冶さんのことを次のように説明していた。 
「小三冶の場合は声を出したり表情を作ったりする前の瞬間に、ちょっと首を振っただけで、もうその人になっている」 

確かに、その通りだと思う。 
「今この場面でこの人が喋ってるんだなぁ」なんて考える必要がないので、噺の中にスッと入っていける。 
高座には小三冶さん一人が座ってるだけなのに、まるで目の前に数人の人がいるみたい。小三治さんの中に複数の人物が生きていて、一人一人が場面に応じて出てくるような感じだ。

まくらも面白いし、その時の口調の「~なんだって」とか「~じゃないよぉ」ってのも可愛くて好き。 

ちょっと凄みのある目つきもたまらない。 
こういう目の人間を見ると、無自覚になれないタイプの人間に思えて、ドキドキしてしまう。 

小三冶さんが映画の中で、自分の落語に対する姿勢について語るところがよかった。 
親の影響もあって、子どもの頃の小三冶さんはできたことよりできなかったことに目を向けて、何とか完璧に近づけようとする癖があったらしい。 
例えばテストで95点を取っても、間違えた5点の方に着目して「何であと5点取れなかったんだ。次は100点取れるようにしなきゃ」って考えてしまうような…。 
そんなところが大人になっても抜けなくて、落語に対してもそういう取り組み方で、だから【落語を楽しんでやっている】というところからはちょっと遠くて、そういう意味で自分は落語に向いてないんじゃないか…って本人は言うのだけど。 

私は【何かに向いてる】っていうのは、【何かを器用に楽しくできること】じゃなくて、【何かに真摯に向き合い続けることができること】だと思う。 
順調でない時にもそこから目をそらさず「もっと上手くやれるのではないか」と自分を徹底的に観察して、しつこくダメな所を直していく。 
そんな接し方ができる【何か】があるとしたら、それはその人に向いているんだろう。 

師匠に「面白くない」といわれ続けても「これでもか、これでもか」と落語に向き合い続けてきた小三冶さんが落語に向いていないわけがない! 

人間の幅を広げることが落語にも生きてくるだろうと、音楽やバイク、スキーなんかの趣味を楽しむんだけど、何をやっても「落語のために…」ってのが抜けない感じの生真面目さがすごく魅力的だった。 

そして何より、映画の中でチラっと紹介されるだけの落語もやっぱり面白くて、時々客席から笑いが起こる。 
映画、観に来てよかったなぁと思った。