There's a place where I can go

ツイッター @hyokofuji ミサ

【映画】日の名残り

日の名残り』 1993年 アメリカ・イギリス

1958年、ダーリントン卿のお屋敷で執事を務めるスティーブンスのもとに手紙が届く。20年前一緒に働いていた女中頭ケントンからの手紙だ。彼女は結婚を機にお屋敷を去ってしまったのだけど、今の生活に満足していない。お屋敷での日々を懐かしんでもいるようだ。その手紙を読んでスティーブンスは名案を思いつく。彼は新しい主人のもとでお屋敷を運営していく計画を立てている最中だったのだけど、女中頭として彼女に来てもらえば上手くいくに違いないと思ったのだ。

20年前ケントンとスティーブンスは仕事上のパートナーとしてお互いを信頼し合っていた。主人に忠実で自分の意見を全く顔に出さないスティーブンスと、いつでも自分の意見をはっきり言う勝ち気なケントン。二人は対立することも多かったけど、お互いの能力を認めて協力し合っていた。二人がいた頃のダーリントンホールはスティーブンスが生涯の誇りにするのに十分なものだ。建物の内部も庭も立派で、政治的な会合も行われる賑やかな場所。

英国紳士ダーリントン卿と違って、お屋敷の新しい所有者であるアメリカ人はしょっちゅうスティーブンスに軽口をたたく。ジョークが理解できずにいちいち困惑するスティーブンスが面白い。彼と新しい主人との噛み合わないやり取りは作品全体の空気にも通じている。スティーブンスの人生観や世界観は20年前でストップしたままだ。決して愚かな人間ではないスティーブンスが、時折気の毒なほど時代遅れな人間に見えてくる。そんな瞬間がたまらなく悲しいんだけど、一度手放してしまったものを今からでもその一部だけでも取り戻そうと動く彼は、この上なく魅力的だ。スティーブンスを演じるのはアンソニー・ホプキンス。私はこの作品に出ている時のアンソニー・ホプキンスが一番好き。

ティーブンスは休暇をもらってケントンの住む町に向かった。彼がお屋敷を出るのは滅多にないことだ。アメリカ人の主人も「世界はお屋敷の中だけじゃないんだぞ」とスティーブンスに旅行を勧めるが、「世界がお屋敷を訪ねてきたものです」と答える彼に返す言葉もない。イギリス国内を見て回ることにまるで興味を示さない彼が、主人の車を借りて、《お屋敷運営の解決策を探るため》ドライブ旅行に出発した。

20年前、スティーブンスとケントンは仕事仲間以上の感情をお互いに持っていたのだけど、仕事を何よりも優先させるスティーブンスは自分の気持ちにさえも気付けない様子だった。そんな彼が時々気持ちの揺れを見せるところがいい。彼と彼女の関係は仕事上の関係を離れることがない。雑談さえもほとんどしないという徹底振りだ。

そんな二人が一度だけ接近する場面がある。スティーブンスが休憩中に読んでいた本にケントンが関心を示し、本を隠しながら部屋の隅に避難した彼を追い詰めて手の中にある本のタイトルを無理やり読もうとするシーン。彼が読んでいたのは感傷的な恋愛小説。至近距離でケントンを見つめながらも平静を保つスティーブンス。このシーンの光の使い方がすごく好き。

ティーブンスは20年振りにケントンに再会して、お屋敷で再び働いてくれないかと打診したのだけど、残念ながら彼の希望は叶わない。海岸沿いのベンチにケントンとともに腰掛け、街灯のともる瞬間に歓声をあげる人々を不思議な顔で見ているスティーブンス。

「あなたはこれからに何を思い描いているの?」とケントンから聞かれ、「お屋敷運営の計画を立てなければ」と何の迷いもなく即座に答えるスティーブンスがよかった。彼が取り戻したかったのはケントンとともに働いた《黄金の日々》だ。ケントンの夫になった元使用人のように、お屋敷を出て彼女と家庭を築くという選択肢は今も20年前もスティーブンスにはない。

感情をほとんど表に出さないスティーブンスが二回だけダーリントン卿の甥から「顔色が悪いよ」と声を掛けられる場面がある。一度目は同じお屋敷で働いていたスティーブンスの父が亡くなった時。二度目はケントンの結婚が決まった時。それだけで、ケントンがダーリントンホールを去ってしまうことが彼にとってどれほどの打撃だったのかがよくわかる。

20年振りのわずかな時間の再会で、ケントンが「自分の人生は間違っていたんじゃないかと思うことがある」と打ち明ける。自分の力でどうにもならないものに翻弄されながら、それでも執事としての自分を貫いているスティーブンスが、ケントンのその言葉を聞いて、全然悔いなんてなさそうな素振りで「誰にでも悔いはある」と答えるのが印象的だった。

時間が進むに従って、過ぎ去ってしまった取り返しのつかないことがどんどん増えていく。自分の気付かないうちに多くのものが失われていく。その不穏な感じが音楽やスティーブンスの表情、高い位置からお屋敷を映す映像なんかによく出ていて、原作の雰囲気が損なわれることなく映像化されているのが嬉しかった。

監督:ジェームズ・アイヴォリー

脚本:ルース・プローワー・ジャブバーラ

原作:カズオ・イシグロ 『日の名残り