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【本】将棋の子

『将棋の子』 大崎善生 (講談社文庫) 

小学六年の大崎善生が少しの間通っていた北海道将棋会館。 
そこで出会ったのが小学五年の成田英二。 

腹話術の人形のような真っ白でやせっぽちの少年が、有段者しか上がれないはずの和室に躊躇なく上がり、どっかりとあぐらをかいて甲高い声をあげる。 

「今日はこっちの相手、誰か強い人きてるっぺかねえ?」 

「天才少年」と呼ばれ、道場の大人たちをこてんぱんに負かす彼の姿は、大崎善生に鮮烈な印象を残した。 

その成田と大崎が再会するのは十数年後。 
場所は、東京の将棋連盟二階の薄暗い廊下の片隅。 

奨励会というプロ棋士の養成機関に入会し二段になっていた22歳の成田と、将棋連盟で働き始めた24歳の大崎。 

再会といってもほとんど初対面に近い二人だったが、一緒にファミレスで食事をしたのを機に、すっかり親しくなる。 

22歳にしては恐ろしい程世間知らずで純粋な成田は、その反面将棋のことになると頑固で融通がきかない。 

【将棋の勉強は実戦のみ。】 
【定跡の研究は一切しない。】 
【研究や知識に頼らず、終盤力を武器に、自分にしか指せない将棋を指す。】 

奨励会ホープといわれた成田の成績に翳りが見え出すのは、羽生世代の入会後。 

羽生世代の将棋に対する考え方は成田と正反対で、序盤から中盤にかけては知識や研究に基づいた創造性で戦い、終盤は詰将棋で鍛えた計算力で読み切ってしまう。 

極端にいうと、「終盤ではすでに答えが出てしまっていて、計算力さえあれば誰が指しても同じになる」というのが当時の羽生世代の考えで、彼らの台頭によって終盤重視の将棋は通用しなくなり、将棋界の常識が大きく変わっていくことになる。 

自分の将棋のスタイルを変えない成田は、二段で足踏みを続け結局プロ棋士として認められる四段には至らず、奨励会を退会してしまう。 
成田は新宿将棋センターに就職し、その後29歳で故郷の北海道に帰る。 

成田が北海道に帰ってから11年後、将棋世界の編集部で働いていた大崎は総務課からのメモ書きを手にする。 
それは成田英二の連絡先変更のメモで、それが編集部に回ってきたのは、彼が奨励会退会後、指導棋士として将棋連盟に籍をおいていたためである。 

そこに書かれていた「白石将棋センター気付」の一行がひっかかり、大崎は11年ぶりに成田と連絡を取ろうとする。 
大崎は成田が住む場所を失うかそれを公開できない状態にあるのではないかと想像したのだが、その予想は的中していた。 

11年ぶりに北海道のファミレスで再会した40歳の成田は、お決まりの「ハンバーグとコーラ」を注文して大崎に近況を話し始める。 

勤めていたパチンコ屋や清掃会社が次々に倒産し、生活保護を申請してもなかなか受理されず、新しい仕事も見つからず、借金を重ね夜逃げして、行き着いたのが全寮制の古新聞回収会社。 

朝から晩まで一日中走り回って、手取り400~500円。 
寮で出される食事はご飯・納豆・生卵。 
こんな調子のいわゆるタコ部屋での生活を、成田はもう一年も続けていた。 

甘ったれで母親にベッタリだった成田が、夜逃げの時には亡くなった母親の写真まで置いてきてしまったのに、唯一置いてこられなくてポケットに突っ込んで持ってきたのが、奨励会を退会したときにもらった記念の駒。 
その駒を大崎に見せながら、成田は話を続ける。 

「タコ部屋みたいなところで、ほとんど無収入に近いような状態で、落ちるところまで落ちたけれど、この駒は自分が羽生さんなんかと戦ってきた証拠で、そのことがこっちの人生のすべてなんだもの。」 

「こっち、お金もないし、仕事もないし、家族もいないし、今は何にもないけれど、でも将棋が強かった。」 

「将棋がね、今でも自分に自信を与えてくれているんだ。」 

「だから、こっち、今でも将棋に感謝しているよ。」 

成田の言葉を聞いていると、奨励会退会者が将棋によって教えられたものが、勝負の世界の厳しさや残酷さ、挫折感だけではない事にほっとさせられる。 

村山聖に「勝つも地獄、負けるも地獄」と言わせたほどの苛酷な世界。 
そんな中に飛び込みさえしなければ、しないで済んだ苦しい思いも沢山あったのだろうけど、そんな状況で戦ってきたからこそ持ち得る自信や誇りは、誰にも汚されることのない揺るぎないものに感じられて、そういうものを持っている成田が羨ましくなってしまう。 

夢が叶うに越したことはないけれど、成田のように見栄とは無縁に誇り高く生きられることは、とても幸せなことなのかもしれない。