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ツイッター @hyokofuji ミサ

【映画】永遠の僕たち

『永遠の僕たち』 2011年 アメリ

両親を自動車事故で亡くし、自分もその事故で限りなく死に近づいた少年イーノック。彼は死が本人にとって「無」であること、残されたものに「死に対する憎しみ」しかもたらさないことを実感する。

両親の死に目にあえず告別式にも出られなかった彼は、他人の葬式に忍び込むというゲームを繰り返す。誰かの死が残された人たちにとってどういう意味を持つのか、それを何とか突き止めたかったのだろう。

癌で亡くなった子供の葬儀で、彼は同世代の少女アナベルと出会う。彼女は「病院でボランティアをしている」と自分のことを説明したけれど、本当は彼女自身が脳腫瘍で余命わずかの患者。

彼女は、病気であることを自分たちの属性の第一に持って来られるのをひどく嫌がる。がん患者を指す時の言葉遣いに厳密なところで、彼女のその考えが表れる。子どもの頃から数年にわたって癌と闘ってきた彼女だからこそ感じることがあるのだろう。

虫や鳥が好きで好奇心旺盛な彼女は、この世界のすべてを愛しているように見える。「私はもうすぐ死ぬの」なんて空気を全く出さないところが、この作品を魅力的なものにしている。

深刻なテーマだけど、ちょっと笑える場面があったりするし、あまりにも二人が可愛らしいので、観ていて幸せな気分になってしまう。どんな状況でも完全には失われてしまわない輝きが、持ち時間の少なさを吹き飛ばしてしまうのが爽快。ポートランドの風景も大好き。

アナベルをずっと支えてきた姉はどうしても彼女の病気のことを第一に考えてしまう。姉はイーノックのことをあまりよく思っていないし、アナベルはそんな姉のことをわずらわしく思うこともある。姉がアナベルの痛みを自分のことのように感じているのはアナベルの再発を医師から聞かされるシーンによく表れている。アナベルのことを本当に大事に思っている母や姉の存在は、彼女にとって必要なものだけど、家族以外の人間との深いつながりも彼女には必要だ。

病気の深刻さを徐々に理解していきながらも、目の前のアナベルのことを患者である前にアナベルとして扱うイーノックの存在は、彼女にとってなくてはならないものになっていく。

この映画には戦時中に特攻隊員だった幽霊の役で、加瀬亮が出ている。加瀬くん演じるヒロシはイーノックにしか見えない。英語を話す日本兵ヒロシに、イーノックが「日本兵切腹するのか?」と尋ねたりする。「切腹するのは日本兵じゃなくて侍だ」と説明するヒロシが面白い。アナベルの後を追って自殺するという設定のお芝居をアナベルイーノックの二人でしている時に、イーノックがアドリブで切腹しようとして「恋人が死んで切腹する人なんていないわよ」とアナベルに言われるのが私のツボだった。

アナベルがうっかり口にした一言で昔を思い出して落ち込んだヒロシが浴槽の中で三角座りをするところや、アナベルと一晩一緒に過ごしたイーノックにヒロシが感想を聞くところもおかしかった。

アナベルの告別式をどんなものにしようかと、アナベルイーノックの二人で計画して、その通りのセレモニーをするのだけれど、イーノックが別れの挨拶をする前にアナベルとの思い出を蘇らせるシーンがすごくよかった。死が残された人たちにもたらすのが「死に対する憎しみ」だけじゃないんだっていうのが、アナベルの死を受け入れたイーノックから窺える。アナベルと過ごした時間の中でイーノックの考えが変わっていくところがよかった。

ヒロシとのやり取りも絶妙。ヒロシがイーノックに指図することなくいつも何となくそばにいて見守っているところがよかった。イーノックにとってアナベルが大事な存在になるに従って、ヒロシにとってもアナベルが大切になっていくところもよかった。ヒロシ自身も悔いを残している人なので、それを抱えながらイーノックのことを本気で心配していて、時には大喧嘩もしてしまう。ヒロシはイーノックを支えるために現れたんじゃなくて、ヒロシにとってもイーノックが必要だったんだなって思った。

ヒロシを演じる加瀬亮も、イーノックを演じるヘンリー・ホッパーも、アナベルを演じるミア・ワシコウスカもすごくよくて、最高のキャスティングだなって思った。

ミア・ワシコウスカは知的で元気な女の子の役がよく似合う。アニマルプリントをこんなに可愛く着こなせるものかと驚いた。この作品、衣装もすごくいい。アナベルが青と白のボーダーの上にオレンジのカーディガンを着ているのが可愛かった!ベージュに赤の格子が入ったコートも。

監督:ガス・ヴァン・サント

脚本:ジェイソン・リュウ

【映画】日の名残り

日の名残り』 1993年 アメリカ・イギリス

1958年、ダーリントン卿のお屋敷で執事を務めるスティーブンスのもとに手紙が届く。20年前一緒に働いていた女中頭ケントンからの手紙だ。彼女は結婚を機にお屋敷を去ってしまったのだけど、今の生活に満足していない。お屋敷での日々を懐かしんでもいるようだ。その手紙を読んでスティーブンスは名案を思いつく。彼は新しい主人のもとでお屋敷を運営していく計画を立てている最中だったのだけど、女中頭として彼女に来てもらえば上手くいくに違いないと思ったのだ。

20年前ケントンとスティーブンスは仕事上のパートナーとしてお互いを信頼し合っていた。主人に忠実で自分の意見を全く顔に出さないスティーブンスと、いつでも自分の意見をはっきり言う勝ち気なケントン。二人は対立することも多かったけど、お互いの能力を認めて協力し合っていた。二人がいた頃のダーリントンホールはスティーブンスが生涯の誇りにするのに十分なものだ。建物の内部も庭も立派で、政治的な会合も行われる賑やかな場所。

英国紳士ダーリントン卿と違って、お屋敷の新しい所有者であるアメリカ人はしょっちゅうスティーブンスに軽口をたたく。ジョークが理解できずにいちいち困惑するスティーブンスが面白い。彼と新しい主人との噛み合わないやり取りは作品全体の空気にも通じている。スティーブンスの人生観や世界観は20年前でストップしたままだ。決して愚かな人間ではないスティーブンスが、時折気の毒なほど時代遅れな人間に見えてくる。そんな瞬間がたまらなく悲しいんだけど、一度手放してしまったものを今からでもその一部だけでも取り戻そうと動く彼は、この上なく魅力的だ。スティーブンスを演じるのはアンソニー・ホプキンス。私はこの作品に出ている時のアンソニー・ホプキンスが一番好き。

ティーブンスは休暇をもらってケントンの住む町に向かった。彼がお屋敷を出るのは滅多にないことだ。アメリカ人の主人も「世界はお屋敷の中だけじゃないんだぞ」とスティーブンスに旅行を勧めるが、「世界がお屋敷を訪ねてきたものです」と答える彼に返す言葉もない。イギリス国内を見て回ることにまるで興味を示さない彼が、主人の車を借りて、《お屋敷運営の解決策を探るため》ドライブ旅行に出発した。

20年前、スティーブンスとケントンは仕事仲間以上の感情をお互いに持っていたのだけど、仕事を何よりも優先させるスティーブンスは自分の気持ちにさえも気付けない様子だった。そんな彼が時々気持ちの揺れを見せるところがいい。彼と彼女の関係は仕事上の関係を離れることがない。雑談さえもほとんどしないという徹底振りだ。

そんな二人が一度だけ接近する場面がある。スティーブンスが休憩中に読んでいた本にケントンが関心を示し、本を隠しながら部屋の隅に避難した彼を追い詰めて手の中にある本のタイトルを無理やり読もうとするシーン。彼が読んでいたのは感傷的な恋愛小説。至近距離でケントンを見つめながらも平静を保つスティーブンス。このシーンの光の使い方がすごく好き。

ティーブンスは20年振りにケントンに再会して、お屋敷で再び働いてくれないかと打診したのだけど、残念ながら彼の希望は叶わない。海岸沿いのベンチにケントンとともに腰掛け、街灯のともる瞬間に歓声をあげる人々を不思議な顔で見ているスティーブンス。

「あなたはこれからに何を思い描いているの?」とケントンから聞かれ、「お屋敷運営の計画を立てなければ」と何の迷いもなく即座に答えるスティーブンスがよかった。彼が取り戻したかったのはケントンとともに働いた《黄金の日々》だ。ケントンの夫になった元使用人のように、お屋敷を出て彼女と家庭を築くという選択肢は今も20年前もスティーブンスにはない。

感情をほとんど表に出さないスティーブンスが二回だけダーリントン卿の甥から「顔色が悪いよ」と声を掛けられる場面がある。一度目は同じお屋敷で働いていたスティーブンスの父が亡くなった時。二度目はケントンの結婚が決まった時。それだけで、ケントンがダーリントンホールを去ってしまうことが彼にとってどれほどの打撃だったのかがよくわかる。

20年振りのわずかな時間の再会で、ケントンが「自分の人生は間違っていたんじゃないかと思うことがある」と打ち明ける。自分の力でどうにもならないものに翻弄されながら、それでも執事としての自分を貫いているスティーブンスが、ケントンのその言葉を聞いて、全然悔いなんてなさそうな素振りで「誰にでも悔いはある」と答えるのが印象的だった。

時間が進むに従って、過ぎ去ってしまった取り返しのつかないことがどんどん増えていく。自分の気付かないうちに多くのものが失われていく。その不穏な感じが音楽やスティーブンスの表情、高い位置からお屋敷を映す映像なんかによく出ていて、原作の雰囲気が損なわれることなく映像化されているのが嬉しかった。

監督:ジェームズ・アイヴォリー

脚本:ルース・プローワー・ジャブバーラ

原作:カズオ・イシグロ 『日の名残り

【映画】ブリキの太鼓

ブリキの太鼓』 1979年 西ドイツ・フランス

大人にならないと決めた3歳の男の子オスカル。彼は成長を止めるためにわざと地下室の階段から落ちてしまう。それ以来彼の成長は止まり3歳の姿のまま大きくならないのだけど、それと同時に彼は《太鼓を叩きながら大声を出すとガラスを割ることができる》という超能力を手に入れる。彼がひとときも離さないブリキの太鼓は、母親からのプレゼントだ。

広場で行進曲が演奏されている中、彼が違うリズムで太鼓を叩き、広場を舞踏場にしてしまうシーンがすごく好き。3歳の子どもの姿なのに、大きな目をグリグリさせてにこりともしない彼に惹きつけられてしまった。

サーカスを見に行った彼が彼と同じように10歳で成長を止めた53歳のサーカス団員と出会う。この団員はオスカルに入団を勧めるのだけど、彼は断ってしまう。のちにサーカス団員と再会した彼が一座のアイドル的女性に惹かれて入団し、パリでの公演に参加する。

エッフェル塔の下に立った彼がエッフェル塔を見上げながら「おばあちゃんのスカートみたい」という場面が印象的だった。彼の祖母はスカートを4枚重ねてはいていて、その中に人をかくまったりするのだ。

誰かと誰かが出会って子どもが生まれたり、誰かが亡くなるきっかけを誰かが作ってしまったり、そういう瞬間が繰り返し訪れるなかで月日は流れていく。大人を嫌悪して子どもの姿のままでいる彼も、子どものままでいられるのは見た目だけだ。彼にも汚いところやズルイところはちゃんとある。それが窺えるシーンが滑稽でよかった。21歳になった彼はブリキの太鼓を手放し、大人になる決心をする。

母親の胎内にいた彼が、キレイなものばかりではないこの世の中に出てくることを選んだのは、彼の母が「ブリキの太鼓をプレゼントしてあげる」と約束したから。出てくるのを渋るのも当然だと思うほど見苦しいものだらけの世界だけど、愉快なできごともたくさんあって、悪いことばかりじゃないところがいい。彼に愛情をかけてくれるたくさんの人たちに、彼が出会えたのが何よりもよかった。

ギュンター・グラスの原作も読んでみたい。

監督:フォルカー・シュレンドルフ

脚本:フォルカー・シュレンドルフ ジャン=クロード・カリエール

原作:ギュンター・グラスブリキの太鼓

【本】ビギナーズ

『ビギナーズ』 レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 翻訳ライブラリー(中央公論新社

この本のあとがきには、カーヴァーが編集者ゴードン・リッシュに宛てた手紙が収められている。「僕はこの話から降りなくてはならない」という書き出しで始まるこの手紙は、カーヴァーがリッシュにカーヴァーの作品の出版を取りやめてくれるように頼む内容のものだ。

カーヴァーの作品はリッシュによる手直しを受けて出版されることになっていた。出版前にチェックしたその作品の内容にカーヴァーは驚かされる。『愛について語るときに我々の語ること』というタイトルで出版される予定の短編集は、もとの原稿がバッサリ削られていて、それぞれの短編のタイトルも付け替えられていた。

「手直し」とはとても言えないレベルの変更にカーヴァーは戸惑い、慌てて出版の中止を申し出た。自分の原稿をズタズタにされ、もはや自分の原稿だとも言えない状態になっているのに、それでもなおカーヴァーがリッシュに対して低姿勢なのは、カーヴァーとリッシュの間の力関係のせいだ。カーヴァーは今の自分があるのはリッシュのおかげで、とても返せないほどの借りがあると、手紙の中に書いている。

アルコール依存症から立ち直り、何とか作家としての自分を安定した状態に持っていこうと格闘しているカーヴァーにとって、彼の価値観そのものである作品がどういう形で発表されるかはとても重大な問題だ。リッシュの直しによって作品が素晴らしいものになり、結果的にそれがカーヴァーの名声を高めることになったとしても、彼が彼の作品に納得できなかったとしたら、それは彼にとって致命的なことだ。手紙を読んでいると「このまま話が進んでしまえばものを書くことがもう二度とできなくなるかもしれない」というカーヴァーの切実な思いが痛いほど伝わってくる。

カーヴァーの懇願にも関わらず『愛について語るときに我々の語ること』は出版されてしまった。

その『愛について語るときに我々の語ること』をオリジナル原稿の形で復元したものが『ビギナーズ』というタイトルのこの短編集。リッシュによって大幅に削られたバージョンと違って、厚さも2倍ぐらいになっていると、訳者の村上春樹が書いている。訳者あとがきで村上春樹がカーヴァーとリッシュの関係についてわかりやすく説明してくれているので助かった。

リッシュが我慢ならなかったと言うカーヴァーの「めそめそしたセンチメンタリズム」は村上春樹によると『ビギナーズ』のオリジナル原稿にも見受けられる要素だそうだ。ただ村上春樹はそれを負の要素としてではなく、のちの『大聖堂』や『使い走り』という傑作を生む原動力として捉えている。カーヴァーの「めそめそしたセンチメンタリズム」は彼が人間として成熟していくにつれて「高度な精神性」や「深い共感性」に高められていったと村上春樹は説明する。

『ビギナーズ』を読んでいると、カーヴァーが優しくて温かい眼差しを持った人だというのがよくわかる。確かに冗長な印象も受けるけれど、この速度がこれを書いた時期のカーヴァにはぴったりだったのだろう。

私はまだリッシュの手直しを受けて出版された『愛について語るときに我々の語ること』も、それよりあとに出版された『大聖堂』なども読んでいないので、これから順番に読んでいきたいと思う。一年、二年の時間をかけて少しずつ作品を書き溜めながら価値観のようなものを身につけたいと、リッシュに宛てた手紙の中で書いているカーヴァー。彼が人としてどんな風に自分を作っていったのか、彼の作品から少しでも感じ取れれば嬉しい。

『ビギナーズ』には17の短編が入っているのだけど、私が特に好きだったのは「ささやかだけれど、役にたつこと」「隔たり」「ダンスしないか?」の三つ。

「ささやかだけれど、役にたつこと」には、事故で息子を失った両親が焼きたてのパンを食べるシーンがあるのだけど、そのシーンが特に好き。パン屋の一言がいい。「こんなときには、ものを食べることです。ささやかなことですが、助けになります」

「隔たり」では、若い夫婦が朝食中にベーコンエッグを服に落として大笑いするシーンが一番よかった。「二人は体を寄せ合って、涙がにじむほど大笑いした。そのあいだ、凍りつくものはすべて外側にあった」この部分がすごくいい。これを読んだ時に「カーヴァー、好きだなぁ」って思った。

「ダンスしないか?」にはガレージセールに訪れた男女がガレージの持ち主の勧めでダンスを踊るシーンがでてくる。私はそのシーンがすごく好き。ガレージの持ち主である男性はおそらく自分の家族を失ったところなのだろう。若い二人にお酒を勧め、安い値段で家具を譲り、ガレージに置いたままのベッドで眠ってしまった二人に毛布をかける。その話をのちに友だちに聞かせる女の子がその日のできごとを語りながら、そこに語りえないものがあることに気付く。彼女が語りえないものを語ることを諦める瞬間がいいなって思った。大切なんだけど言葉にするのが難しい何かを、掬い上げてしまう力が物語にはある。

【映画】扉をたたく人

『扉をたたく人』 2008年 アメリ

主人公は62歳の大学教授ウォルター。
妻を亡くして孤独で無気力な生活を送っている。
普段はコネチカットの大学に勤めているのだけど、学会発表のためにニューヨークへ向かった。

ニューヨークには彼が何年も前から所有しているアパートがある。
自分のアパートに鍵を開けて入った彼は、バスルームで知らない女性と鉢合わせる。
彼女はセネガルからの移民で、同じくシリアからアメリカへやってきた男性と一緒にこのアパートを借りていたのだ。

二人には不法滞在という弱みがあるので、騙されて家賃を支払っていたのに警察に訴えることもできない。
ウォルターが自分たちのことを通報してしまったのではないかと恐れ、二人は行く当てもないのにそそくさと荷物をまとめて出て行った。
二人を心配したウォルターは彼らを自分のアパートに居候させることにする。

移民の青年はジャンベという太鼓のような楽器をいつもたたいている。
亡くなった奥さんのピアノを弾いてみようとレッスンを受けていたウォルターだが、ピアノは何度先生を変えてもうまくいかず挫折しそうになっていた。
ジャンベに興味を持ったウォルターに青年がレッスンをつけてくれるようになり、二人は公園でたたいたり、仲間たちとセッションしたり…。
クラシックとは全く違うアフリカ音楽のリズムを自分の中に叩き込んでいくウォルターを見ていると、私も楽器の練習を始めたくなってくる。
いくつになっても、楽器を始めるのに遅いなんてことはないのかもしれない。
ウォルターがジャンベを習得しようとする時の食い入るような目つきが好き。

「仕事をしているふり、忙しいふりだけで、何年もまともな仕事をしていない」自分のことをそう語る彼が、青年と交流する中で驚くほどエネルギッシュな面を見せてくれる。
不法滞在を疑われ勾留されてしまった青年を何とか助けようと奔走する姿に、ウォルターの秘めていたエネルギーが窺える。

青年の母に留守を頼んでコネチカットに戻ったウォルターが仕事を済ませて再びニューヨークのアパートへ戻ってくる。
扉を開け放った部屋の中で青年の母が窓を拭いている。
開いている扉をノックするウォルターの柔らかい表情が印象的だった。
彼が初めて見せる柔らかい笑顔は、ウォルターの心がいつの間にか開いていたことの証だろう。
ジャンベのリズムと青年との交流がウォルターを変えたのだ。

扉を固く閉ざしてしまった9・11以後のニューヨーク。
ウォルターの奮闘にも関わらずその扉が開くことはなかった。
地下鉄のホームで一心不乱にジャンベを打ち鳴らすウォルターの姿がどんなセリフよりも強烈に彼の憤りを伝えてくる。
ジャンベの響きとともに彼の感情がこっちにまで伝染してくるような、力強いラストシーンだった。

【本】おじさん図鑑

おじさん図鑑』 なかむらるみ (小学館

おじさんを観察して図鑑としてまとめたもの。文章も面白いけれどイラストもすごい!

50代以上の男性を見るとついつい「おじさん」ってひとくくりにしてしまうけど、おじさんも千差万別。こんなにバラエティに富んでいたのかと驚かされてしまった。それでいながら「確かにこんなおじさんいるいる!」って思えるリアルさがあって、読みながら何度も笑った。

「普通のスーツのおじさん」から始まって「お疲れのおじさん」「暇そうなおじさん」「ラフなおじさん」「スポーティなおじさん」などジャンル分けが面白い。

「ラフなおじさん」は確かに町の図書館なんかで見かけるし、私もつい最近までそんな格好で図書館に行っていた…。

「暇そうなおじさん」は後ろで手を組んで歩く。あまりに暇すぎて修行僧に話しかけてしまうおじさん。「めいわくだよ!」と思って声を出して笑ってしまった。

「スポーティなおじさん」の格好はかなり好き。競技用自転車に乗るような本格的なファッションじゃなくて、皇居の周りを走ってそうなファッション。キャップにTシャツ、短パンにスニーカー、高性能腕時計。リュックを膝において電車の中で文庫本を読んでいるイラストがたまらない。

私は辺見庸の影響で黒いキャップをかぶっているおじさんが無条件にかっこよく見えたりするのだけど、この本ではおじさんのキャップについても細かく分類されていて、それが面白い。ナイキのキャップがおじさんには人気があるらしく、それをかぶっている人が多いのだけど、著者がナイキをかぶっているおじさんに「その帽子、どうしたんですか?」と聞いたところ「え?もらったんだよ」と言われてしまったそうだ。ナイキキャップ人気の理由は謎のまま…。

私が一番ツボだったのは「愛読誌別おじさんチェック」。姫野カオルコの『よるねこ』を読んでいるおじさんを見つけるところがスゴイ。奇跡的だな。「サイケデリックな表紙が個性的な服装にマッチ。色々と常識にとらわれないものがお好みのようだ」というコメントに吹き出してしまった。(私は姫野カオルコが大好き)

おじさんを観察するだけではなく、おじさんとの交流もあって、カレンダーに自作の格言を記しているおじさんが登場したりするのが愉快でよかった。格言の中にはこんなものも。「死ぬ気で頑張れば死ぬぞ」。その通りだな…。

おじさん予想診断というのが付いていて、自分が将来どんなおじさんになるのか判定されるのだけど、私は「哀愁漂う真面目なおじさん」という結果が出た。「すでに完璧なおじさん!」って言われなくてちょっとホッとした。

【映画】ロルナの祈り

ロルナの祈り 2008年 ベルギー・フランス・イタリア 

主人公ロルナはアルバニアからの移民。ベルギー国籍を取得するために、社会の底辺で生きる麻薬中毒の青年クローディと偽装結婚する。偽装結婚の手引きをしたファビオという男はベルギー国籍を得たロルナを使って金儲けをしようと企んでいた。ベルギー国籍を欲しがるロシア人男性とロルナを結婚させようという計画だ。そのためにはクローディを麻薬の過剰摂取で死なせてロルナを未亡人にする必要がある。離婚・結婚を繰り返すと警察から偽装結婚を疑われるからだ。
初めはロルナもこの計画に納得しているようだった。彼女の夢は恋人と一緒にバーを開くこと。そのためにはお金も国籍も必要だし、「麻薬中毒の男はいずれ薬のせいで命を落とすものだ」と言われればその理屈を飲み込めそうな気もする。
彼女の考えが次第に変わっていくのはクローディとの偽りの結婚生活が始まってからだ。知らない人間との共同生活を煩わしく思っているようだったロルナがクローディの痛みや苦しみに無関心でいられなくなる様子が二人のちょっとしたやり取りに表れているのが素晴らしかった。偽装結婚と分かっていながらロルナとの関係に希望を見いだして何とか薬を断とうとするクローディのセリフが特にいい。
そんなクローディに愛情を感じ始めたロルナがクローディを死なせる計画を何とか変更させようとする。何も持たず、弱い立場に追い込まれ、自分が生き延びるだけで精一杯になってしまってもおかしくない彼女が、まだ闇に飲まれない強さを持っているところに感動した。
出勤前にクローディと別れて職場に向かうロルナが彼の自転車を追ってちょっと走ってみせるシーンがすごく好き。
弱いものがさらに弱いものを踏み台にするという決して美しくない世界を描いているのに、その世界にも信頼できるものが存在することを示してくれるところがこの映画の魅力。ベートーヴェンピアノソナタ32番が悲しげなのに優しくて、ラストシーンによくあっていた。
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ
脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ