【本】ゆで卵
人は、いつかは死んでしまう。
それは、当たり前のことだけど、たいてい人は自分が死ぬなんて全く想像せずに日々を過ごしていく。
たとえ、人の死を何度経験しても、自分の死になじむことは決してない。
でも、確かにあると思っていた足場が急に抜けてしまったみたいに、誰かがすとんとこの世界から消えてしまう時、消えてしまったその人と、ここにいる自分との間に、どれほどの違いがあるのだろう。
人が惨めに死んだ日の夜、なぜか好きでもないゆで卵を食べるのが、この話の主人公。
「夜、ゆで卵を食っている。ポクポクと食っている」
「えれえくせえよ」と言いながらゆで卵を食べるこの男によると、ゆで卵のにおいには、そこはかとなく【生】が漂うらしい。
ゆで卵のにおいは「死を境にした生のにおい」
ポクポクとゆで卵を食べながら、男は「ろくでもない日々のとりわけてろくでもない夜と昼」とを蘇らせる。
友人が突然自殺した日。
サリンが撒かれた駅構内に偶然居合わせた日。
夜中に硬ゆでの卵を食べながら、しみじみ思う。
「俺は生きてるな」
「ああ、今夜生きているな」
その日の朝、男が地下鉄構内でかいだサリンのにおいは、ハノイのニョクマムのにおいに似ていた。
ニョクマムのにおいは「生を境にした死のにおい」だそうだ。
この作品、においの描写が生々しくて、そのせいで【生】や【死】といった【におい】や【形】や【色】のないものが、まるで肌で感じることができるもののように迫ってくる。
【生】も【死】も紙一重なんていうのは不正確で、そこには絶対的な溝があるのだけど、この溝を思いのほか呆気なく越えられる瞬間が日常に潜んでいるのが恐ろしい。
のちに亡くなってしまう人と、生き延びる人が同時に居合わせた駅構内には、憎しみや悪意というものが見当たらず、ただただ「根拠のないきまじめ」だけがあったと男は言う。
通勤者、救助にあたる人、マイクを向ける人、倒れこむ人、そしておそらく犯人も、その場における自分の役割をひたすら忠実に果たすばかりで、この事態の意味や原因を追究しようとする人は一人もいなかったのではないかと男は推測する。
それは、「救助が先で原因究明はあと」といった段取りに基づく行動ではなく、人々がこの事態をいつか起こり得る災厄一般として案外すんなりと受け入れていたために取った行動ではないかと…。
思考停止状態に陥って、妙に適応力を発揮してしまう人間の無力さが恐ろしい。
ETVで辺見庸がカミュの『ペスト』について話していたのを思い出す。
「絶望するよりも絶望に慣れることが怖い」
「日常のしぶとさ」
「楽観が蔓延する」
といった言葉が印象に残った。
確かに人間には、自分の死から無意識に目を逸らしているのと同じように、事態の深刻さから目を背けようとするところがある。
危機感を持つべきところで、事態の異常さを小さく見積もったり、現状を打開しようとするより惰性の日常を続けてしまうことを選んだり…。
憎しみや悪意なんてものより、はるかに力をもって、事態を破滅へと導いていく怠惰。
その凄まじい力がどうしようもなく悲しい。
短編集のうちの一つの短編(たったの80ページ)に、読み取りきれないほどたくさんの要素が詰まっていて、読み終わった今、すぐにもう一度読み返したくなってしまった。