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ツイッター @hyokofuji ミサ

【本】孤独の部屋

『孤独の部屋』 パトリック・ハミルトン (新人物往来社

第二次世界大戦中のイギリスの下宿が舞台。 
灯火管制や配給といった些細な日常の不便の中に戦争の影がうかがえるが、空襲のシーンなどは一切なく、下宿の人々は呑気に生活しているように見える。 
下宿で生活しているのはあまり裕福でない人たちのようだ。 
働いていないお年寄りが多い。 
主人公の三十九歳の女性ミス・ローチはロンドンで空襲に遭って焼け出されたために下宿をしている。 
下宿から職場へ出勤する数少ない住人の一人だ。 
下宿は各自の部屋があって、みんなが集まるラウンジがあったり、食堂があったりする。 

面白いのは、住人みんなが集まる食堂での食事。 
会話が盛り上がるわけでもなく、ほとんどの人が黙々と食べているだけなのだけど、一人だけ空気を乱すおじいちゃんがいて、誰かが口を開けば自分に対する意見だと解釈して返事をするし、食堂全体に聞こえる大声で自分勝手に思いついたことを捲くし立てる。 
このおじいちゃんの使う「ござる口調」や「自分に敬語を使う話し方」は原作ではどうなっていたのか気になる。 
翻訳で読んでも面白いし、多分雰囲気は十分伝わっていると思うのだけど。 

主人公のミス・ローチは独身で下宿で暮らすイギリス人女性。
職場の男性に結婚を申し込まれたものの、とても喜んで受けられるような相手ではなく、「もっと納得して受けられるような相手から一度でも申し込まれたことがあればなぁ」と考えてしまう。 
自分の年齢などを考えるとこれぐらいのレベルの男からしか声がかからないのも仕方ないかと思いつつ、そんな風に自分を諦めざるを得ないことに彼女はちょっと傷ついてしまう。 

そんな折、彼女に近づくアメリカ人中尉がいて、随分なれなれしくて彼女は困惑するものの、困惑しつつも悪い気はしない。一貫性のない態度を取るこの男に振り回されながら彼女は段々彼に惹かれていく。彼女の視点でこの男や下宿の人たち、女友達が描かれていくところが面白い。彼女はこの男のことに関しては随分好意的解釈をするのだけど、女友達に対しては厳しい。 

ミス・ローチの友人ヴィッキーはドイツ人女性で、彼女の紹介で同じ下宿に引っ越してくることになった。彼女が紹介するはずだったのに、直接大家さんに連絡を取って彼女の知らないうちに引越しを済ませていたりするものだから、彼女は何だか面白くない気分になってしまう。面倒なことを自分に頼らず勝手に済ませてくれたのだから自分にとっても都合がいいはずなのに、「気に入らない」と思ってしまうのはなぜなんだろう?ヴィッキーやアメリカ人の中尉と知り合うことによって、彼女の中に自分自身でも分析しきれない気持ちが次々に湧いてくる。

中尉がヴィッキーに関心を示したり、下宿の困ったじいちゃんがヴィッキーに不健全な欲望を抱いたりするところから、ミス・ローチがヴィッキーに対する嫉妬や憎悪のようなものに苦しめられるのが興味深い。自分が異性から見て性的に魅力的かどうかっていうことは彼女にとってもうとっくに関心のなくなったことだと思っていたのに、彼女が低劣だとみなすそういった感情に彼女自身が振り回されてしまう。彼女がベッドの中でヴィッキーを殺しかねないほどの敵意をぐんぐん膨らませていくところがちょっと怖かった。 

真面目で礼儀正しくて理知的な彼女の中にこんなに黒い部分があるとは彼女自身も驚いただろうなぁと思いつつ、誰にだってこんなところはあるよなって思いながら読めるところがよかった。下宿を出た後にミス・ローチがヴィッキーや中尉のことを振り返って、あんなに嫌いだったヴィッキーのことをちょっと許せそうな気になるところもよかった。